ベルトラン・デュ・ゲクラン(2)
文字数 1,256文字
1364年、シャルル5世がフランス国王に即位すると彼に仕え、ナバラ王カルロス2世と戦い5月16日にノルマンディーのコシュレルの戦いで大勝利した。同年にロングヴィル伯となるが、9月29日のオーレの戦いで敗北しシャルル・ド・ブロワは戦死、ゲクランは仇敵ジャン4世に捕らえられ3度目の捕虜になったが、シャルル5世の払った身代金によって解放された。1366年と1368年にはアンジュー公のためにプロヴァンス伯領で戦争をする。
また、1366年にゲクランは、失職して社会不安の原因となっていた各地の傭兵たちをまとめてカスティーリャに向かい、異母弟のペドロ1世(残虐王)と争っていたエンリケ・デ・トラスタマラの援軍として、ペドロ1世と結んだイングランドのエドワード黒太子と戦った。
だがシャルル5世にしてみれば治安を乱す傭兵をまとめて国外に連れ出してくれ、エンリケの支援もしてくれたゲクランの存在はありがたかったに違いない。この頃から戦争は利害関係が複雑になっているし、傭兵の扱いも面倒になってきた。
ゲクランは各地で勝利を収め、エンリケからモリナ公に任じられたものの、1367年のナヘラの戦いで黒太子に大敗して再びイングランドの捕虜となり、シャルル5世が立て替えた莫大な身代金と引き換えに解放されている。1369年にはモンティエルの戦いでペドロ1世率いるカスティーリャ軍を破り、エンリケはカスティーリャ王エンリケ2世として即位する(第一次カスティーリャ継承戦争)
ゲクランにとってはカスティーリャでの戦いもたくさんの戦いの1つ、裏切りや交渉も当たり前のことかもしれません。でもゲクランがエンリケに味方したことでペドロ1世は殺され、エンリケのトラスタマラ家の血がカスティーリャ、そしてアラゴンに流れることになります。ペドロ1世の軍隊にはユダヤ人や異教徒もたくさんいました。ゲクランは捕虜を取るなと言い、彼等の多くは殺されます。この時エンリケが勝たなければ僕たちスペインにいるユダヤ人の運命は違っていたかもしれません。でもペドロ1世は殺され、ゲクランが味方をしたエンリケがカスティーリャ王になってしまいました。このことの重大さを多くの人はわかっていません。