コンスタンツ公会議(1)
文字数 1,297文字
コンスタンツ公会議は1414年から1418年にかけて神聖ローマ帝国内のコンスタンツ司教領で開催されたカトリック教会の公会議。3人の対立教皇を廃し、一人の正統なローマ教皇を立てることで教会大分裂(シスマ)またジョン・ウィクリフとその影響を受けたヤン・フスを有罪とした。コンスタンツ公会議は教皇権が失墜した中で公会議主義者が主導した唯一の公会議となった。
教会分裂に終止符を打つべくして行われたピサ教会会議(1409年)では、アレクサンドル5世を新教皇として選出したが、アヴィニョン教皇ベネディクトゥス13世とローマ教皇グレゴリウス12世が退位しなかったため、3人の教皇がいるという異常事態を招いて失敗に終わった(アレクサンデル5世は翌年に急死、ヨハネス23世が後を継いだ)
教会大分裂が始まったきっかけは教皇庁がアヴィニョンからローマに戻った時にイタリア人から教皇をというローマ市民の圧力で選ばれたウルバヌス6世があまりにも横暴なために別の教皇が選ばれました。そしてベネディクトゥス13世はカスペの妥協でアラゴン王を選出する時にカスティーリャの支持を得るためにフェルナンド1世を選んでいます。そしてヨハネス23世は前の教皇アレクサンデル5世を殺したと噂されるほど評判の悪い人なのに教皇に選ばれている、教皇の選び方に問題があるのにそこはなかったことにして新しい教皇を選び、異端者を厳しく取り締まっている、コンスタンツ公会議は根本的なところで間違っていると思います。
ここにおいて影響力を強めようとした神聖ローマ皇帝ジギスムントの提唱によってコンスタンツでの公会議の開催が宣言された。ジギスムントはヨハネス23世を説得してこの会議に参加させ、その呼びかけによって多くの参加者を得ることに成功した。