クレメンス7世(2)
文字数 1,211文字
フアン1世の死後、マルティン1世が後継者を残さずに亡くなったため、カスペの妥協でカスティーリャ王子のフェルナンド1世がアラゴン王になりました。その後アラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世が結婚してスペインとなり、孫のカルロスがスペイン王になった時、彼は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫でもあったため、広大な領土を手に入れ、皇帝の位を巡ってフランスと争うようになりました。
1527年、フランス王フランソワ1世と同盟を結んだ教皇への報復として、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍がローマに侵攻する。クレメンス7世はサンタンジェロ城に逃れるが、市内では殺戮、破壊、略奪強姦等の惨劇が繰り広げられた(サッコ・ディ・ローマ、ローマ略奪)他の都市へ逃れる市民も多く、ルネサンスの中心地であったローマは見る影もなく荒廃した。
これは酷い、あまりにも酷過ぎます。私達の祖先でラミロ2世のお父上、サンチョ・ラミレス王はローマへ巡礼の旅に行き、教皇と友好関係を結び、サン・ペドロの僕になると誓ったのです。以後アラゴンはキリスト教の信仰心が篤い国として発展してきました。私は贅沢をしてアラゴンの財政を傾け、不真面目王と呼ばれるようになりました。でも私には夢がありました。娘をフランス王家に嫁がせてフランスとの関係を強め、息子を跡継ぎにしてアラゴンをフランスのような芸術が栄え文化の中心にするという夢です。アラゴン王家の直系の血筋は途絶えましたが、それでもその血を継いでスペインを統治するようになった者が、政治的にフランスと争い、ローマ教皇と対立するようになり、ローマを破壊するように命令したということが何よりも悲しいです。
ルター派だったドイツ人の傭兵がチャンスとばかりにローマで市民やカトリックの聖職者を虐殺したとしたら、本当に酷い話です。宗教改革はただ今までのカトリックの仕組みを批判しただけでなく、聖職者を殺し街を破壊することもよいことだと教えたのでしょうか?そこまで言わなくても批判した相手を殺し自分たちが権力を持つことが正義だと信じ、ためらうことなく聖職者を殺したとしたらそれは怖ろしいことです。