フルク4世(3)
文字数 901文字
フルク4世は、ノルマンディー公に対する反乱の中で臣下メーヌ伯エリー1世を支持している。
また、トゥールの大司教と悶着を起こして破門された際、法王から取り調べを任命された教会の権力者に献金することで贖宥状を確保している。
最後の妻ベルトラード・ド・モンフォールをフランス王フィリップ1世に誘拐されてしまった時期、さらに2人目の妻エルマンガルドとの息子ジョフロワ4世マルテルの反乱と戦わなければならなくなり、結果的に1106年に郡の代理人としてカンテ包囲戦に参戦したジョフロワ4世を矢で暗殺した。フルク4世は41年間の政治的支配が認められた後、1109年にアンジェにて死去している。
フルクは生涯の中、多くの結婚を繰り返したとされ、正確な結婚と離婚した回数は不明かつ5回の結婚の内2回の結婚は信憑性が低いとされている。初婚の妻にフルク4世の忠実な家臣であるボージャンシー卿ランセリン2世の娘イルドガルド・ド・ボージャンシーを迎える。イルドガルドとの間に一女をもうけている。
・エルマンガルド(1068/72年ー1146年没)アキテーヌ公ギヨーム9世の最初の妻。ギヨーム9世と離婚後ブルターニュ公アラン4世と再婚した。
イルデガルドと死別した後、ブルボン卿アルシャンボー4世の娘エルマンガルド・ド・ブルボンと再婚したが離婚し、ジャリニー卿ギヨームと再婚させた。エルマンガルド・ド・ブルボンとの間に一男をもうけている。
・ジョフロワ4世マルテル(鎚若伯、1106年没)父とアンジューを共治していたが、反乱を起こされフルク4世自らの手で暗殺したとされる。