ゴドフロワ・ド・ブイヨン(2)
文字数 815文字
ゴドフロワ・ド・ブイヨンは1060年頃、ブローニュ伯ウスタシュ2世の次男として生まれた。母親はイド・ド・ブローニュであり、イドはゴットフリート顎鬚公の娘である。ゴドフロワの生誕地はブローニュとされているが、13世紀の年代記によると彼はベルギー、ブラバン・ワロン州のバイジーの生まれであるという。彼は次男の生まれであったため、貴族としての出世の機会が兄と比べて非常に少なかった。しかし彼の母型の叔父のゴットフリート4世が子供を持つことなく亡くなったことを受け、ゴドフロワは下ロレーヌ公国を継承することとなった。この公国はフランス・ドイツ間の緩衝地帯になっていたとされており、政治的に非常に重要な地域の一つであった。
実際、下ロレーヌ地域は神聖ローマ帝国からも重要地域と見做されていたとされ、1076年にはのちの神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が下ロレーヌ公に自分の息子を任じ、ゴドフロワにはブイヨン地域とアントウェルペン辺境伯国のみを与えたという。言い伝えによれば、この処遇はハインリヒ4世がゴドフロワの忠誠を試すために行ったとされる。ゴドフロワはハインリヒ4世に対する忠誠を守り、叙任権闘争でローマ教皇グレゴリウス7世と対立するハインリヒ4世を支援した。そして彼はハインリヒ帝と共にシュヴァーベン公ルドルフの軍勢と戦い、ハインリヒ帝がローマに入城した際にはイタリアへ従軍した。