レーモン・ド・ポワティエ(2)
文字数 1,077文字
アンティオキア総司教を選挙で選ぶことは疑わしいと考えていたレーモンは、総司教にも忠誠を誓わされるにおよび、不快がつのった。結局、1139年に総司教は退位した。1142年に再びヨハネス2世に包囲されたが、この時のレーモンは以前の服従と違い、改心を拒んだ。帝国軍はアンティオキア周辺を荒らし回り、誰も皇帝に対抗することができなかった。レーモンは1143年に即位したマヌエル1世コムネノスからシリシアの都市を割譲するよう要求された。レーモンが好敵手であることを見抜いたマヌエル1世は、主従の誓いと、正教の大主教へ挨拶するよう命じ、コンスタンティノープルで恥をかかせようとした。
1148年、第2回十字軍の指導者でフランス王ルイ7世と王妃アリエノール・ダキテーヌ(レーモンの姪で兄ギヨーム10世の娘)がアンティオキアを訪問した。レーモンは、ルイ7世にエルサレムへ向けて南下せず、アンティオキアにとどまってアレッポとカエサリアの征服に協力してくれるように頼んだ。レーモンは美しい姪のアリエノールとの仲の良いところを見せつけたため、周囲の者たちに近親相姦ではないかと疑われた。ルイ7世は彼らが2人だけで時を過ごし、レーモンもアリエノールに惜しみなく愛情をふりそそぐといった具合で、すっかり疑い深くなってしまった。ルイ7世がレーモンへの助力を断ったための当てつけだという見方もあった(南フランスのアキテーヌ人特有の愛情表現で、お互い幼い頃から見知った間柄の2人であるから仕方のないことだという後世の歴史家の意見がある)。ルイ7世は予定を早めてアンティオキアを去った。
もしレーモンがルイ7世に見せつけるように姪のアリエノールとベタベタしなければ、ルイ7世も怒りを感じることもなく離婚を避けられたかもしれません。そうなれば百年戦争のような争いにもならなかった、自分の気分のままに行動するアリエノールはとんでもない悪女です。
1149年6月、レーモンはイナブの戦いでヌールッディーンと戦い、殺された。サラディンの叔父のシール・クーフに首をはねられ、彼の首の入れられた銀の箱は、バグダードのカリフの元へ贈り物として送られた。
コンスタンスとの間に3子が生まれた。ボエモン3世、マリー、フィリッパである。