マーガレット・オブ・ヨーク(4)
文字数 988文字
1483年4月9日、兄エドワード4世が崩御する。遺児であるエドワード5世が戴冠式を挙げる前に、王の叔父(マーガレットの弟)であるグロスター公リチャード(後リチャード3世)に王位を簒奪された。リチャード3世に対する叛乱から、薔薇戦争の第3次内乱が勃発した。リチャード3世は1484年に王妃と王太子を相次いで亡くし、1485年8月22日にボズワースの戦いでリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(ヘンリー7世として即位)に敗れ、戦死する。こうしてテューダー朝が興った。
するとマーガレットはヨーク派として、ヘンリー7世の王位を奪おうとする全ての者(ラヴェル卿のような家臣だけでなく、ランバート・シムネル、パーキン・ウォーベックといった僭称者も含まれる)の支援者になった。ウォーベックは明らかにヨーク公リチャード(エドワード4世の息子でエドワード5世の弟)ではなかったが、マーガレットは彼を自分の甥であると公認した。
その結果、ヘンリー7世には、ハプスブルク家及びブルゴーニュへ接近する必要性が生じ、これがスペイン王女カタリナとアーサー・テューダーの婚姻の背景となった。カタリナは1501年にアーサー王太子に嫁し、翌年死別した後、1509年にヘンリー8世と再婚した。
1500年、フィリップ美公とその妃フアナ(後スペイン女王)に嫡男カール(仏、シャルル、西、カルロス)が誕生すると、スペイン王太子(アストゥリアス公)フアンの未亡人となって帰国したばかりのマルグリットと共に、洗礼式に参列した。二人は、マクシミリアンの名を付けたがったが、結局はシャルル突進公に因んだ命名となった。