カール4世(4)
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カール4世はローマ王となってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれる。1348年4月、カール4世は開催中であった全ボヘミア領邦議会の会期にあわせて一連の勅書を発布したが、彼はこれによってローマ王の立場から自身の選帝侯及びボヘミア王としての諸特権を再確認し、一方ではボヘミア王のもとでの所領の不可分性を規定した。
ヨーロッパにおける大学はボローニャ大学が最古でパリ大学がそれに次ぎ、イングランドではオックスフォード大学・ケンブリッジ大学、さらにイタリア南部でもサレルノやナポリには創設されたが、ライン川の東側、アルプス以北の領域には大学が一つもなかった。
したがって現在のドイツにあたる地域で学問を志す若者は遠方で学ぶよりほかなかったが、幼少をパリで過ごした文化人皇帝カール4世はそのような状況の解消に努めるとともに、プラハを「東方のパリ」たらしめんことを図ったのである。
ドイツ語圏初の大学は、カール4世の領国建設に資する官僚の育成を目的とするものでもあった。これにより、プラハは中欧における学問の中心として栄え、ヨーロッパ屈指の文化都市として発展した。プラハ大学そのものも上述の諸大学に比肩され、後に神学者ヤン・フスらを排出している。プラハの旧市庁舎を建設したのもカール4世だといわれる。