ジギスムント(5)
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ラディズラーオはナポリでカルロ3世とマルゲリータ・ディ・ドゥラッツォの間に生まれ、1386年に父カルロ3世の死で9歳でナポリ王になっています。でも権力基盤は不安定で、1389年に反対派貴族達によりナポリから追放され、ヴァロワ=アンジュー家からルイ2世・ダンジューが擁立され即位、1399年に王位を奪還するまでラディズラーオは王位をはく奪されたままでした。
ラディズラーオはハンガリーでは国王ジギスムントと対立する貴族に擁立され、1401年と1403年にローマ教皇ボニファティウス9世の指名でハンガリー王とされましたが、ハンガリーでも基盤が弱いためすぐにジギスムントに蹴散らされ、実効支配にはなりませんでした。
1404年にジギスムントは教皇令は国王の同意抜きでは公布することができないという勅令(国王同意権)で、教皇の高位聖職者の叙任権を剝奪した。そして1417年にハンガリー王が司教および大司教を任命できる権利を教皇から承認された。
1410年、ローマ王ループレヒトが死去した。そのため、ジギスムントは帝国諸侯からローマ王に選出され、即位することになった。この時、同族の従兄であるモラヴィア辺境伯ヨープストが共同統治王に立って争ったが、翌1411年にヨープストが死去したため、単独のローマ王となった。
ジギスムントは、ローマ教皇を保護することで皇帝権力の強化を目指した。この頃、ローマ教会は複雑な対立から分裂していたが(教会大分裂)ジギスムントは1414年にコンスタンツ公会議を開催して、ローマ教会の再統一を果たした。
ジギスムントにしてみれば、ローマ王という地位を得たが、ローマ王というのはいつ奪われるかわからない不安定な立場でもあるから、教皇から戴冠されて神聖ローマ皇帝になりたかった、そのためには教会大分裂を早く終わらせたいから公会議を行うよう呼び掛けてコンスタンツ公会議が行われたということですね。