ジャン・ジェルソン(2)
文字数 1,691文字
ジェルソンの最大の業績はなんといってもカトリック教会の大危機であった教会大分裂(シスマ)を克服させたことである。1378年のグレゴリウス11世の死後、教会には2人の教皇が立っていた。これは中世の人から見れば、唯一であるはずの教会が2つになり、1人であるはずのキリストが2人になったかのような異常事態であった。教会分裂のもともとの原因はフランス王にあったため、心あるフランス人たちはその責任を感じていた。
ジェルソン、ピエール・ダイイ、クラメンゲスのニコラスといったパリ大学の重鎮たちは教皇クレメンス7世の時代、パリ大学の名において教会分裂収拾への3つのロードマップ(あるいは選択肢)を提示した。それは「協議の道」、「妥協の道」、「公会議の道」といわれるものであった。フランス王や教皇たちに働きかけるパリ大学の努力が続けられた結果、ついに対立する教皇たちに教義についての合意を取り付けるまでにいたった。
しかし、ヨーロッパの諸王たちは、分裂の収拾において教皇たちが話し合って解決するよりは、各国の枢機卿団の思惑が通りやすい公会議の方が自分たちの政治的意向を反映させうると考え、公会議開催への世論と圧力を高めていった。ジェルソンは多くの文書をあらわして分裂収拾を方向付けていったが、そこからは初めは「協議の道」にかけていた希望が結局教皇たちの指導力のなさによって果たされず、徐々に公会議への期待に転換していくことが読み取れる。
最終的に事態は、公会議の強力なイニシアティブによってしか解決できないところまで追い込まれていた。というのも新たに教皇ヨハネス23世を選出したピサ教会会議が対立教皇の解決どころか、第3の教皇をたてるという最悪の結果を引き起こしてしまったのである。ダイイはここにいたって公会議でも解決はできないと失望したが、ジェルソンはあきらめなかった。
ピサ教会会議は1409年にピサで行われてアレクサンデル5世が選出されましたが、グレゴリウス12世とベネディクトゥス13世は納得せず3人の教皇が立つことになりました。アレクサンデル5世は翌1410年に亡くなり、ヨハネス23世が教皇に選出されています。
ジェルソンはまたもう1つの理由で公会議の実施を熱望した。それは同じころに起こった(ブルゴーニュ公ジャンの支持による)オルレアン公ルイの暗殺を合法的なものとして支持した神学者ジャン・プティに対するパリ大学とパリ司教の弾劾の実効性を公会議で確認しようとしたからである。