マルグリット・ド・クリッソン(1)
文字数 966文字
1387年、ブルターニュ公ジャン4世に対抗する父の意向でパンティエーヴル家のジャン1世・ド・シャティヨンと結婚した。しかし、1395年に父とジャン4世が和解、1399年にジャン4世が死去し父が遺児達(ジャン5世、アルテュールなど)の後見人に任命されると、マルグリットは夫を次の公位に就けるべくジョスラン城を包囲、父に後見を撤回させようとしたが、激怒した父が殴り掛かったため逃亡した際、階段から落ちて足を骨折、一生片足が不自由となってしまった。
マルグリットにしてみれば、父クリッソンの考えは理解できなかったと思います。政略結婚させられたのに、なんで今度はジャン4世の遺児たちの後見人になるのかと。でもクリッソンのこのような行動があったからこそ、遺児たちの命は守られました。
パンティエーヴル家にはブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)が味方になり、1406年にマルグリットの息子オリヴィエ・ド・ブロワと無怖公の娘イザベルが結婚、対するジャン5世は妹ブランシュをアルマニャック伯ベルナール7世の息子ジャンに嫁がせた。
ブルターニュでの争いにブルゴーニュ家まで絡んできてブルゴーニュ派とアルマニャック派の争いにも繋がっていたのですか?ブルターニュでの出来事は1つの地方、個人の争いだけでなくフランスを揺るがす争いになっていたのですね。