マルティン・ルター(7)
文字数 836文字
ルターが賢公フリードリヒ3世(ザクセン選帝侯)の庇護を受けることになったため、当時の教皇はハプスブルク家への対抗上、賢公をないがしろにはできなくなっていた。
このような空気の中で行われた1518年10月のアウクスブルクでの審問は、教皇使節トマス・カイェタヌス枢機卿が免償の問題に対するルターの疑義の撤回を求めた。しかし、ルターは、「聖書に明白な根拠がない限りどんなことでも認められない」と主張した。
逮捕を恐れたルターは、アウクスブルクから逃亡したが、教皇もルターの保護者賢公に配慮し、ルターに対してそれ以上の強い態度に出ることはなかった。ルターは自らの身の潔白を主張し、公会議の開催を求めていた。なぜなら当時は、公会議の決定は教皇を超える権威を持つという公会議主義の思想が色濃く残っていた時代であったからである。ルターの求めた公会議は、やがてトリエント公会議において実現することになる。
教皇庁では事態を穏便に解決するため、特使カール・フォン・ミルビッツを派遣してルターと会談させているが、結局事態は解決できなかった。そして、教皇庁が秘密裏に交渉を続ける間にも、事態は神学問題を超えて論議を呼んでいたため、神学者ヨハン・エックはルターの盟友ルドルフ・カールシュタットに論戦を挑んだ。1519年7月、ライプツィヒでこの討論会が行われることになり、エックとカールシュタットが議論を戦わせた。やがてルター本人も現れ、エックと論戦を行った。この議論の中でルターが公会議の権威をも否定してしまったことで、学問レベルでルター問題を解決しようという試みは失敗に終わった。事態は政治闘争の様相を帯びてきた。