マティルダ・オブ・イングランド(2)
文字数 764文字
マティルダは1128年に今度はフランスに送られて、父と対立していたアンジュー伯兼メーヌ伯フルク5世が和睦のため政略結婚を計画、フルク5世の息子で10最年少のジョフロワ4世と再婚した。ヘンリー1世とフルク5世は1119年にも和睦してそれぞれの子女ウィリアム・アデリンとマティルド(ジョフロワ4世の姉)を結婚させていたが、ホワイトシップの遭難で台無しになったため、再度政略結婚を纏めてマティルダとジョフロワ4世の結婚に至った。なお、フルク5世は結婚後ジョフロワ4世にアンジュー伯位を譲ると旅に出て、エルサレム王として後半生を送ることになる。
フルク5世はエルサレム王になり、ボードゥアン4世の祖父になります。ボードゥアン4世は不治の病に苦しみながらも高貴な王として有名で、僕はハインリヒ7世と一緒にボードゥアン4世に会いに行きました。エルサレム王の祖先について思いがけない形で知ることができ、とてもうれしいです。
マティルダは再婚に不満で、元皇后としての自負心から夫を見下して夫婦仲は悪かったが、1133年には長男アンリ(後のイングランド王ヘンリー2世)を生む。ヘンリー1世は孫の誕生に喜び、同年に貴族にアンリへの臣従の誓いをさせたが、イングランド貴族たちからは結婚でノルマンディー家とイングランドが宿敵アンジュー家(ガティネ家)に乗っ取られる危惧から反感を買い、マティルダは夫と共にノルマンディーとアンジュー境界領域の城の支配権をヘンリー1世に要求して対立、前途は多難だった。