バレンシアの歴史(2)

文字数 1,424文字

バレンシアの歴史についての続きです。作品集には下の画像から入ってください。
バレンシアは1102年までキリスト教徒軍の手に残ったが、1102年にムラービト朝が奪還してイスラム教徒の支配に戻った。「全スペインの皇帝」を自称したカスティーリャ王アルフォンソ6世はいったんはバレンシアからイスラーム教徒を追いやったが、都市を保持し続けるのに十分な力は有していなかった。キリスト教徒は町を放棄する前に火をつけ、1109年5月5日にはムラービト朝のマスダリが占領した。
「全スペインの皇帝」とはまたずいぶん強気な発言だ。アラゴン王としては許せぬ。アルフォンソ6世はいつの時代のカスティーリャ王だ?
カスティーリャ王アルフォンソ6世(1040ー1109)はアラゴンのサンチョ・ラミレス王(1042ー1094)と同じくらいの時期の人です。いろいろなことをやってたくさんの伝説を残した人です。娘のウラカ(カスティーリャ女王)はラミロ2世の兄アルフォンソ1世と結婚しますが、2人の間に子供は生まれず、5年で離婚してしまいます。
イブン・ハファージャはムラービト朝のマスダリの占領を、町の解放を進めたユーフス・イブン・タシュフーンへの感謝の意味を込めて詩に残している。やがてムラービト朝の影響力は後退し、新王朝ムワヒッド朝が北アフリカからやってきて台頭、ムワッヒド朝は1145年にはイベリア半島の主導権を握った。しばらくはバレンシア王兼ムルシア王のイブン・マルダニーシュがムワヒッド朝のバレンシアへの入場を阻止していたが、1171年にはついに北アフリカの勢力によって陥落した。ムラービト朝とムワッヒド朝というイスラーム教徒の2つの勢力は、1102年から130年以上にわたってバレンシアを支配している。
アラゴンやカタルーニャと違ってバレンシアはイスラム教徒の支配が長く続いています。
1238年、アラゴン王ハイメ1世はアラゴン人、カタルーニャ人、ナバラ人、カラトラバ騎士団による十字軍からなる軍隊を伴ってバレンシアを包囲し、9月28日には都市を降伏させ、5万人のムーア人がバレンシアを去ることを余儀なくされた。
この時ハイメ1世(1208ー1276)は30歳です。
イスラーム教徒の追放後、都市は征服の参加者の間で分割された。ハイメ1世は都市に対して「バレンシアのフール」と呼ばれる新たな特権を与え、この特権は後にはバレンシア王国全体に拡張された。キリスト教徒の統治下で新たな社会や言語が発達し、今日のバレンシア人の特徴となる基礎を形成した。
ハイメ1世が都市に自治権を与えたというのはすごいことだと思います。
ハイメ1世はアラゴン連合王国の構成国のひとつとしてバレンシア地方にバレンシア王国を築き、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒など、あらゆる宗派が王国の市民として生活することを認めた。レコンキスタ時点のバレンシア王国にはイスラーム教徒12万人、キリスト教徒65,000人、ユダヤ教徒2,000人が暮らしていた。
同じレコンキスタ終了後のキリスト教徒支配といっても、1492年のフェルナンドカトリック王の時とは全然違います。その時には同時にユダヤ人追放令が出ています。
僕達ユダヤ人にとって、支配者が変わっても同じ都市に市民としてそのまま暮らせるか、追放令が出て改宗を迫られるかは大きな違いです。それをしないで異教徒が住むことを許可し、自治を認めたハイメ1世は偉大な王だと思います。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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