リチャード2世(2)
文字数 1,045文字
当初ミラノ僭主ベルナボ・ヴィスコンテの娘カテリーナとの縁談が予定されていたが実現せず、1382年に神聖ローマ皇帝兼ボヘミア王カール4世の娘アン・オブ・ボヘミアと最初の結婚をした。結婚は教会大分裂でイングランドをローマ教皇庁支持にして神聖ローマ帝国とイングランドを結び付けたいローマ教皇ウルバヌス6世とアンの異母兄ヴェンツェルの意向が働いた。
ウルバヌス6世って確か高圧的な態度で反感もたれ教会大分裂を引き起こした人ですよね。その後アラゴンの大貴族ルナ家から出た対立教皇のベネディクトゥス13世が『カスペの妥協』でアラゴン王を選出する時に大きな影響力を持っていました。
アンがボヘミアから連れて来た大勢の使用人が浪費している、イングランドが持参金をボヘミアへ支払う羽目になる、アンがイングランド人から人気がないなど周囲の印象は良くなかったが、彼女とリチャード2世はエドワード1世同様に仲睦まじい夫妻だった。
アンはペストのため1394年に亡くなり、大いに悲しんだリチャード2世は彼女と2人で過ごしたシーン離宮(後のリッチモンド宮殿)の破却を命じた。アンはウェストミンスター寺院に埋葬され、リチャード2世と手をつないでいる墓像が建てられている。
アンはボヘミアから彩色写本を持ち込み、イングランドでも流行して多くの文学作品が生まれるきっかけを作りました。また彼女は語学にも堪能でチェコ語、ラテン語、ドイツ語を使いこなし、英語やフランス語もマスターし、聖書にも精通していることで、リチャード2世はアンの存命中は感情を抑制できたとされています。
また、彼女がチェコ語訳された聖書を持っていたことが、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書作成の動機となり、ボヘミアのプラハ大学からオックスフォード大学への留学生が増加、彼らを通してウィクリフの思想がボヘミアへ伝わったことが後のヤン・フスによる宗教改革・フス派誕生に繋がりました。