カール4世(3)
文字数 1,030文字
クレメンス6世はかってのカールの師であり、帝国諸侯の中にはルートヴィヒ4世の強引な所領拡大策に不満を持つ者も多く、ルクセンブルク家出身でカールの大叔父にあたるトリーア大司教バルドゥインら選帝侯もまたカールをローマ王に選出して、ルートヴィヒ4世の皇帝廃位を宣言した。
しかしこの時、カールはアルプス以北(後のドイツ)各地のみならず、イタリアにおいても、「坊主王」と称されて軽侮と嘲笑の対象となっている。皇帝に教会保護の義務のみを負わせるという教皇庁の意向をカールがすべて受け入れ、自身のローマ王即位と引き替えに、従来皇帝の既得権とされてきた権限の多くを放棄したからであった。ローマ王としての戴冠式も、1346年にアーヘンではなくボンで簡素に催された。
この年、父と共にカールはフランスへ行き、百年戦争でフランス王国側に立って参戦した。ところが、父は戦争はじまって以来最大の会戦であるクレシーの戦いでフランス王太子ジャン(後のジャン2世)の救援に赴いて戦死した。これにより、カールはボヘミア王及びルクセンブルク伯を継承することとなった。
カールは翌1347年、プラハにおいてボヘミア王として戴冠式を挙行した。直後、廃位を宣言されていたルートヴィヒ4世も死去したため、併せて正式に単独のローマ王となった。選帝侯と先帝ルートヴィヒ4世とは1338年の協約によって、選帝侯によって選出されたローマ王は教皇の認可を待つことなく皇帝とみなされることを取り決めていた。しかし帝国においては国王の世襲を主張するヴィッテルスバッハ家をはじめとして反対勢力も根強く、一時は対立王さえ現れかねない状況だったので、カール4世は当面本拠地であるボヘミア地方を固めた。