カスペの妥協(5)
文字数 1,144文字
アラゴン、バレンシア、カタルーニャの議会または政府間の交渉は、新王に関わる様々な利害、貴族の派閥逃走、ウルジェイ伯支持者らの性急ぶり、そしてカスティーリャ王子フェルナンドの軍の干渉などのため、困難を極めた。
息子が自分より先に死んで打ちのめされ、遺言を残す余裕もなかったのだろう。余の兄上アルフォンソ1世などは自分に子がいなかったから、アラゴン王国の土地と財産はすべてテンプル騎士団などの騎士団に寄進するという遺言を残してアラゴンを混乱させた。そして修道院にいた余が担ぎ出されてアラゴン王となった。
その後、マルティン1世に長官職を与えられ厚遇されていたウルジェイ伯ジャウマが本命候補となった。しかし彼はその専制的な政治姿勢が災いし、ジャナラリター・デ・カタルーニャをないがしろにする者と警戒されていた。
スペイン、ポルトガルではコルテス(コルツ)と呼ばれる身分制議会がありました。僧職、貴族、都市代表の3身分を代表としていました。コルテス成立はレオン王国が1188年、ポルトガル王国が1211年、カスティーリャ王国が1250年、アラゴン王国が1274年、カタルーニャが13世紀末から14世紀初頭でした。