レオ10世(2)
文字数 786文字
シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始し、1495年にはナポリ王になっていますが、ヴェネツィア共和国やローマ教皇アレクサンデル6世、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァらの同盟軍に包囲され、多大な損害を出してフランスに逃げ帰っています。そして1498年にシャルル8世はうっかり鴨居に頭を打ちつける事故を起こし、間もなく死亡しています。
1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の死後に行われた皇帝選挙では、マクシミリアン1世の孫、カール5世の即位を阻むため、フランソワ1世を支援するが失敗。カール5世が皇帝に選出されるが、マルティン・ルターの宗教改革に対抗する必要上、秘かにカール5世と同盟を結んだ。
内政では前教皇ユリウス2世によって始められた第5ラテラン公会議を継続したが、結局、根本的な改革には手をつけないまま終了してしまった。一方でメディチ家の勢力拡大を図り、1513年からフィレンツェを任せていたジュリアーノが死去した1516年に後を継いだ甥(ピエロの遺児)のロレンツォをウルビーノ公に指名、本来のウルビーノ公フランチェスコ・マリーア1世を追放したが、ロレンツォは1519年に一人娘カテリーナを残して急死、フランチェスコ・マリーア1世が復帰して領土拡大に失敗した。