カール4世(11)
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カール4世は、冷徹な現実主義に立脚して神聖ローマ帝国における支配関係の現状を追認し、それに法的根拠を与えたのであり、これによって神聖ローマ帝国では国内治安が確立し、一時的にではあるがフェーデ(私闘)も途絶した。
しかし、反面では通行関税の低減や市民権の市壁外住民への付与など、都市の利益を図った条項は、諸侯の利益に反するものとして削除され、中でも帝国諸侯に対抗するような都市同盟は国内平和を乱す元凶として禁止された。
カール4世にもし、都市を保護することによって諸侯に対する対抗勢力育成の意図があったとすれば、これは妥協にほかならなかった。ただし、晩年に自ら金印勅書に違約し、諸侯の反発があったにもかかわらず、その認可を強行した。
カール4世の念頭にあったのは家領と家権の拡大であり、皇帝位もそのためにこそ最大限に活用された。そして、金印勅書発布後のカール4世は家権拡大政策に専心して、最終的にはルクセンブルク家による事実上の皇帝世襲を企図していた。
余の父上フリードリヒ2世も同じことを考えていた。だが、教皇と対立して、余は教皇にそそのかされて反乱を起こし、異母弟のコンラート4世は皇帝位を継いだ4年後には病死、ホーエンシュタウフェン家は滅ぼされた。
そして皮肉なことに、いずれもカール4世がライバルとみなしたハプスブルク家の手に収まり、カール4世の行動は1438年よりはじまる「ハプスブルク帝国」(ハプスブルク家による帝位の世襲化と中欧支配)を準備することとなってしまったのである。