ブルゴーニュ公ジャン1世(3)
文字数 1,486文字
1413年4月末にブルゴーニュ派の屠殺業者シモン・カボシュとパリ大学のピエール・コーションがパリ市民を扇動して暴動(カボシュの反乱)を起こすと、虐殺に反発した国王・王太子がアルマニャック派に救援を求め、8月にカボシュ・コーションらは追放、市民の統制に失敗した無怖公もフランドルへ退去した。この隙にパリを制圧したアルマニャック派がコンピエーニュ・ソワソンなどブルゴーニュ派の都市を陥落させたが、イングランドと無怖公の結びつきを恐れブルゴーニュ派とアルマニャック派は1414年9月にアラスで再度和睦した。内乱の最中に両派は再びイングランドに接近したが、アラスの和睦でイングランド援助の必要が無くなったため交渉は消滅、埒が明かないと見たイングランド王ヘンリー5世は1415年8月に内乱を好機と捉え百年戦争を再開・フランスへ侵攻して来た。
アルマニャック派を中心とするフランス軍は10月25日にアジャンクールの戦いで大敗し、フランスは一層混乱に陥った。無怖公はアルマニャック派へ援軍提供を申し込んだが拒否されたため軍を自領の防衛に止めたが、2人の弟アントワーヌとフィリップはアルマニャック派に加わりアジャンクールの戦いで戦死している。
アジャンクールの戦いはフランス軍にとっては本当に悲惨な戦いでした。ぬかるみの中杭が埋められて身動きが取れなくなったところにロングボウの矢が飛んでくる、多くの騎士が実力を発揮することもできずに死んでいったのです。そしてヘンリー5世は捕虜の虐殺までしました。ここまで酷いことをされても、まだ自分の利益のためにイングランドと手を組もうとする、勢力争いは怖ろしいです。
戦後に王太子とベリー公も死亡したが、アルマニャック伯がパリで政権を保っていたため、無怖公はパリ奪回をねらった。新しい王太子にルイの弟ジャンが立てられ、無怖公の姪ジャクリーヌ・ド・エノーを妻にしていたことからジャンと接触を図ったが、1417年4月に早世したため振り出しに戻った。
イングランドはフランス侵略を進めながら無怖公へ接触するが、無怖公の動きは曖昧で分かり辛くなっていく。1416年10月に会見したヘンリー5世と無怖公が取り付けた秘密交渉で無怖公はヘンリー5世のフランス王位継承権を認め極秘援助も約束したが、シャルル6世に反抗せず表立って宮廷と敵対しない選んだからである。
とうとうヘンリー5世の王位継承権まで認めてしまったのですか?無怖公とはうまいあだ名をつけています。ブルゴーニュ公ジャン1世は神ですら怖れていない、だからどんなことでも平気でやれるのです。彼には良心のかけらもありません。