ブルゴーニュ公ジャン1世(3)

文字数 1,486文字

ブルゴーニュ公ジャン1世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1412年5月にイングランドとアルマニャック派の同盟が結ばれブルゴーニュ派は手を切られ、8月に一転してブルゴーニュ派とアルマニャック派が一時的に和睦したためイングランドが縁を切られた。
なんかものすごく複雑なことになっていますね。
1413年4月末にブルゴーニュ派の屠殺業者シモン・カボシュとパリ大学のピエール・コーションがパリ市民を扇動して暴動(カボシュの反乱)を起こすと、虐殺に反発した国王・王太子がアルマニャック派に救援を求め、8月にカボシュ・コーションらは追放、市民の統制に失敗した無怖公もフランドルへ退去した。この隙にパリを制圧したアルマニャック派がコンピエーニュ・ソワソンなどブルゴーニュ派の都市を陥落させたが、イングランドと無怖公の結びつきを恐れブルゴーニュ派とアルマニャック派は1414年9月にアラスで再度和睦した。内乱の最中に両派は再びイングランドに接近したが、アラスの和睦でイングランド援助の必要が無くなったため交渉は消滅、埒が明かないと見たイングランド王ヘンリー5世は1415年8月に内乱を好機と捉え百年戦争を再開・フランスへ侵攻して来た。
フランスは仲間割れなどせず、イングランドに備えなければならなかったのに、それぞれの利益や支配権にばかりこだわって、大きなミスを犯していますね。
アルマニャック派を中心とするフランス軍は10月25日にアジャンクールの戦いで大敗し、フランスは一層混乱に陥った。無怖公はアルマニャック派へ援軍提供を申し込んだが拒否されたため軍を自領の防衛に止めたが、2人の弟アントワーヌとフィリップはアルマニャック派に加わりアジャンクールの戦いで戦死している。
アジャンクールの戦いはフランス軍にとっては本当に悲惨な戦いでした。ぬかるみの中杭が埋められて身動きが取れなくなったところにロングボウの矢が飛んでくる、多くの騎士が実力を発揮することもできずに死んでいったのです。そしてヘンリー5世は捕虜の虐殺までしました。ここまで酷いことをされても、まだ自分の利益のためにイングランドと手を組もうとする、勢力争いは怖ろしいです。
戦後に王太子とベリー公も死亡したが、アルマニャック伯がパリで政権を保っていたため、無怖公はパリ奪回をねらった。新しい王太子にルイの弟ジャンが立てられ、無怖公の姪ジャクリーヌ・ド・エノーを妻にしていたことからジャンと接触を図ったが、1417年4月に早世したため振り出しに戻った。
ブルゴーニュ公ジャン1世はアジャンクールの戦いで弟2人を失っていますが、それでもまだ権力を追い求めていますね。
イングランドはフランス侵略を進めながら無怖公へ接触するが、無怖公の動きは曖昧で分かり辛くなっていく。1416年10月に会見したヘンリー5世と無怖公が取り付けた秘密交渉で無怖公はヘンリー5世のフランス王位継承権を認め極秘援助も約束したが、シャルル6世に反抗せず表立って宮廷と敵対しない選んだからである。
とうとうヘンリー5世の王位継承権まで認めてしまったのですか?無怖公とはうまいあだ名をつけています。ブルゴーニュ公ジャン1世は神ですら怖れていない、だからどんなことでも平気でやれるのです。彼には良心のかけらもありません。
私の義理の孫シャルルは大変危険な男を敵にしていたのですね。
無怖公はアルマニャック派との対立は継続しパリの様子を眺めたが、1417年にアルマニャック派と対立してパリを退去したイザボーを11月に保護、トロワで彼女を擁立した政権を樹立した。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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