第4代ボスウェル伯爵ジェームズ・ヘップバーン(3)
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1565年7月29日、女王メアリーとダーンリー卿ヘンリー・ステュアートが結婚したが、8月1日にはエリザベス1世からの援助を取り付けたマリ伯が反乱を起こした。しかし、期待していたイングランドからの援軍は現れず、ボスウェルはマリ伯の軍隊を撃退し、マリ伯は他の主犯格のスコットランド貴族達とイングランドに亡命した。同年、ボスウェルはスコットランド有力貴族で有力なカトリック貴族でもあるゴードン家のハントリー伯の妹ジーンと結婚した。ゴードン家は1562年の夏にメアリーに対して謀反を起こしていたが、マリ伯の反乱鎮圧のために恩赦を与えられて地位も回復した。
1566年3月9日夜、ホリルード宮殿で女王メアリーの秘書リッチオが数人の貴族によって、女王の目の前で殺害された。その時の部屋に他に居合わせたのは、ダーンリー卿、主馬頭ジョン・エルスキン、マリ伯の弟ロバートと妹ジーンだった。他にはボスウェルとハントリー伯がいた。彼らは晩餐には招かれていなかった。後は数人の貴族たちがいた。リッチオを殺害した貴族たちは、ボスウェルとハントリー伯の殺害も狙っていたらしく、2人を探したが、彼らはつなぎ合わせたシーツをロープ代わりにして逃げた後だった。同年6月19日にメアリーはジェームズ(後のスコットランド王・イングランド王ジェームズ6世および1世)を出産した。
1567年2月にダーンリー卿の療養のため、メアリーは臣下たちとカーク・オ・フィールドでしばらく過ごすことになった。しかし2月10日の夜中、ダーンリー卿が殺害されているのが発見された。その後の枢密院では、ボスウェル1人の単独犯行という判決が出された。しかし、4月12日のトルブースでの裁判では無罪判決が出された。ダーンリー卿暗殺の首謀者がボスウェルという見方については、彼ほどの優秀で経験豊富な軍人が、なぜダーンリー1人を殺すのにわざわざこんな目立つ方法を選んだのかという意見もある。