カール4世(6)
文字数 1,387文字
内政に力を傾注できる状況を作ったカール4世は、続いて精力的に政治改革を進めた。まず、神聖ローマ帝国の最高法規で帝国再建案ともいうべき金印勅書を発布した。勅書は1356年1月10日にニュルンベルクの帝国会議で、同年12月25日にはメッツの帝国会議でそれぞれ承認された。これにより、大空位時代より続く神聖ローマ帝国域内の政治的混乱を打開しようとしたのである。
コンラート4世はハインリヒ7世の異母弟です。彼の母はエルサレム女王イザベル2世ですが、彼が生まれてすぐに亡くなり、コンラートはエルサレム王位を継承します。1234年には異母兄ハインリヒ7世が反乱を起こして廃位され、彼が父帝の後継者となります。コンラート4世は1254年に26歳で亡くなり、彼の子コッラディーノはアンジュー家との争いに敗れ、16歳で斬首されました。
叙任権闘争以降のローマ帝国にあっては封建化が進展し、各諸侯の自立傾向が強まって、皇帝権の衰退が著しかった。このことはまた世襲に代わって諸侯による選挙君主制原理の台頭をみた。フリードリヒ1世やフリードリヒ2世ら歴代皇帝による帝国再興の夢は必ずしも実現しなかったが、カール4世の登場にいたってようやく、「ラントフリーデ」と称された、地域的な領邦平和令を帝国再建の基礎におく政策が実現に移された。
もしハインリヒ7世の父フリードリヒ2世と教皇との対立がなければ、ハインリヒ7世が反乱を起こすこともなく、皇帝位の引継ぎもうまくいったと思います。でもそうではなくて混乱が続き、カール4世の時代でようやく収まり、金印勅書が出されたのですね。
金印勅書は全文31章から成っており、
・戴冠式はアーヘン(当時はケルン大司教区に所在)で行うこと
・皇帝選出に関しては教皇の認可を要件としないこと
・皇帝選出権を七選帝侯(マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教の3聖職諸侯、ライン宮中伯(プファルツ選帝侯)、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の4世俗諸侯)が掌握することなどが定められた。
金印勅書の発布により、選帝侯の門地や権利、選挙のあり方などが規定されて二重選挙(対立王)の可能性は消滅したものの、選帝侯には帝国の上級官職のみならず、裁判権、鉱山採掘権、関税徴収権、貨幣鋳造権、ユダヤ人保護権など主権国家の元首のような強い権限があたえられた。これによって帝国は安定期に入ったものの、選帝侯の特権も大幅に認められて拡充されたため、神聖ローマ帝国領邦の自立化はいよいよ決定的なものとなった。金印勅書は、ナポレオン戦争による1806年の神聖ローマ帝国滅亡まで、450年にわたって法的効力を発揮した。