神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世(1)
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ハインリヒ7世(1275年ー1313年)は神聖ローマ帝国の皇帝。ルクセンブルク家の初代皇帝(在位1312年ー1313年)にしてローマ王(ドイツ王)(在位1308年ー1313年)。ルクセンブルク伯(在位1308年ー1310年)でもある。
フランス語を母語とし(ドイツ語も堪能)、フランス王の封建家臣でもあった。フランス名はアンリ。ルクセンブルク伯ハインリヒ6世の子。皇帝としてはハインリヒ「6世」であるが、皇帝ではなかった東フランク王(ドイツ王)ハインリヒ1世から数えて「7世」とするのが一般的である。1250年にフリードリヒ2世が死去して以来、62年ぶりに皇帝の称号を復活させ、神聖ローマ帝国に秩序をもたらす君主としてルネサンス文化人に期待された。
もともとは父の後を継いだルクセンブルク伯に過ぎなかったが、1308年にアルプレヒト1世が暗殺されると、教皇クレメンス5世および弟トリーア大司教バルドゥインやマインツ大司教ペーター・フォン・アスペルト(ミンネゼンガー、フラウエンロープの晩年の支援者)ら選帝侯の支持を受け、即位することになった。
ハプスブルク家の勢力が強くなっているので、別のルクセンブルク家からローマ皇帝が選ばれたという事情もあるのですね。しかも選帝侯の1人トリーア大司教はハインリヒの弟バルドゥインでした。僕はハインリヒ6世の5人の子のうち2人が聖職者になっているのを見て驚いたのですが、この時代も聖職者になることは俗世間を捨てるというよりも、高位聖職者になって実家をサポートする役割の方が大きいと思いました。
ローマ王(ドイツ王)への選出は1308年11月27日、アーヘンでの戴冠は1309年1月6日。この背景にはフランス王フィリップ4世が弟シャルルをローマ王に据えようとする動きを阻止したいという教皇や選帝侯の意図があった。
あまり知られていないがフランス王フィリップ4世と弟シャルルにはアラゴンの血が流れている。フィリップ4世(端麗王)の母は余の息子ハイメ1世の娘イザベルである。ハイメ1世は美男の王として有名であった。フィリップ4世もその血を受け継いでいる。アラゴンとフランスの血が混ざった時、美形の王が生まれるのである。