ナバラの歴史とイエズス会(1)
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フェルナンド2世のナバラ侵攻はナバラ出身でイエズス会の中心となった2人の人物にも大きな影響を与えます。『Miguel Serveto o Miguel de Villanueva』という本の中のナバラとアラゴンの関係という資料にそのことが出てきたので、ここでも少しだけ紹介します。作品集には下の画像から入って下さい。
1512 Conquista o anexión de Navarra por Fernando el Católico iniciada el 21 de julio de dicho año, el 9 de septiembre de 1512 Tudela es la última ciudad del Reino en rendirse a las tropas aragonesas del Arzobispo Alonzo de Aragón. El 4 de octubre entra en la ciudad y jura los fueros de la ciudad, dos veces Fernando el Católico. Los Jaso Azpilicueta, padres de Francisco de Javier, caen en desgracia.
1512年 ナバラはフェルナンドカトリック王によって、征服あるいは併合される。この年の7月21日に攻撃は開始され、1512年の9月9日に王国の最前線の都市トゥデラはアラゴン人の軍隊と大司教アロンソ・デ・アラゴンの前で降伏する。誓いと都市の権利について、2回フェルナンドカトリック王の前で読み上げられる。この時期にフランシスコ・ザビエルの両親であるフアン・ファソとマリア・アスピリクエタには不運が重なる。
1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉3人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した時、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地となり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
もしも、マルティーノとブランカの子が成長していたら、もしもベネディクトゥス13世が対立教皇でなかったら、もしもカスペの妥協で別の者がアラゴン王に選ばれていたら、もしもフアン2世が遺言通り長男のカルロスにナバラ王位を譲っていたら、もしもフェルナンド2世がジェルメーヌと再婚していなければ・・・いろいろな可能性はあったのに、アラゴンによってナバラは征服されました。