パレルモのエウゲニウス(2)
文字数 808文字
エウゲニウスの家系は、何代も前からオートヴィル朝で重要な役職を占めていた。父ヨハネス、祖父エウゲニウスもまた提督であった。彼はグリエルモ2世に仕えた後、1190年に提督となった。彼の最初の任務は、ディーワーンの役員であった。1174年9月にはmagister duane baronum の称号を得たが、これは国王からサレルノに派遣され、bailiffs の会計をチェックし、ストラティゴトゥスに代わって財産の売却を許可し、借入金を返済するためであった。
magister duane baronum としての公務の内容は不明だが、王領内の橋、道路、河川の通行料をすべて解除するというグリエルモ2世の認識票の発行・周知も担当していた(1187年4月)エウゲニウスは1175年にベネヴェントのサンタ・ソフィア教会の土地の境界を決定し、1178年にはノチェーラ・インフェリオーレで、同年9月にはミノーリでラヴェッロとアマルフィの間の境界紛争を仲裁した。そこで彼はmagister regie dohane baronum et de secretis と称された。この頃、彼はWalter de Moac の下で働いていたようである。
グリエルモ2世の死後、オートヴィル朝が終焉し、コスタンツァとハインリヒ6世のホーエンシュタウフェン朝に移行するまで、エウゲニウスはタンクレーディに忠実に仕えた。しかしハインリヒ6世への陰謀という濡れ衣を着せられ、一時的にドイツで監禁された。