イングランド王エゼルレッド2世(2)
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こうしてスヴェン1世にイングランド王位を奪われたが、翌1014年にスヴェン1世が急逝した。そのため、エゼルレッドはイングランドに帰国して復位を果たした。しかし、デーン人のカヌート(のちのデンマーク王クヌーズ2世)がイングランド遠征を引き継いだため、引き続きデーン人との攻防は続いた。だが、1015年には3代の国王に仕えて「デーンゲルト」政策推進の中心人物であった重臣エアドリチがカヌートに内応して離反してしまう。これによってイングランド側は苦境に立たされる。こうした状況の中、生涯を通じてデーン人と争ったエゼルレッドは、1016年に病没した。
エゼルレッドはオールド・セント・ポール大聖堂に埋葬されたが、その墓は1666年のロンドン大火で聖堂とともに焼失した。
なお、エゼルレッドは1010年に勅令を発布し、教会が十分の一税の三分の一を貧民救済のために支出することを命じた。薬師院仁志によると、これは、ヘンリー8世およびエリザベス1世の救貧制度の起源とも言われる。
デーン人に国を奪われたために後世「無思慮王」と呼ばれ、歴代のイングランド王の中でもジョン王と並ぶ暗君と言われ続けた。一方で、同時期の古文書の研究の進展とともに、エゼルレッドの治世において初めて文書による行政運営が行われたことや、法典編纂などが進められた事がわかり、その後のイングランドの政治の範となった要素も少なくないことが知られてきた。