ベネディクトゥス13世(対立教皇)(1)
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ベネディクトゥス13世(1328年ー1423年)はカトリック教会の対立教皇(在位1394年ー1417年)アラゴン王国の大貴族ルナ家出身で本名はペドロ・マルティネス・デ・ルナ。アラゴンではエル・パパ・ルナとして知られる。
1378年にウルバヌス6世を選出したコンクラーヴェに出席、初めウルバヌス6世を支持していたが、彼の横暴な態度に我慢できなくなり、教会大分裂が始まった際に対立教皇クレメンス7世を支持してアヴィニョンに残留した。
ウルバヌス6世(1318ー1389)はナポリ出身、本名はバルトロメーオ・ディ・プリニャーノで平民の子として生まれ、1377年に教皇グレゴリウス11世によりバーリ大司教と教皇庁尚書院長官に任じられました。
同じ1377年にグレゴリウス11世はアヴィニョンからローマに帰還し、翌1378年3月27日に死去しました。4月にローマで行われた教皇選挙では「ローマ人かイタリア人を教皇を」と叫ぶ群衆が選挙会場を取り囲みました。フランス人が多数派の枢機卿らは身の危険を感じる中プリニャーノを選出しました。現在までプリニャーノは、枢機卿団以外から選出された最後の教皇でした。
ウルバヌス6世は選出後、性急に教会の改革を宣言して高圧的な態度に出た。穏和と分別に欠け、枢機卿達を侮辱したり粗暴で傲慢な教皇の態度に反発したフランス人の枢機卿らは、同年9月にアナーニへ集まり、教皇選挙は脅迫のもと行われたので無効であるとして、フランス王シャルル5世の支援を得てクレメンス7世を新教皇(対立教皇)に選出し、フランス、ナポリ、カスティーリャ、アラゴン、ポルトガル、スコットランドが支持した為、教会大分裂の事態に至った。
ウルバヌス6世はローマを固めクレメンス7世をローマへ入らせず(クレメンス7世はアヴィニョンへ退去)、離反した枢機卿達を免職し、新たに29人の枢機卿を補充した。彼には後に聖人となるシヘナのカタリナ、神聖ローマ帝国、イングランド、ハンガリー、北欧諸国の支持があった。