フランス王ルイ6世(3)
文字数 821文字
その後ルイは、1104年にロシュフォールの有力な譜代モンレリ家の分家ロシュフォール家のフランス王国セネシャルギー1世の娘リュシエンヌと結婚することで、ベルトラード王妃派の権力に対抗した。王太子妃リュシエンヌはベルトラードの息子フィリップ王子の義父モンレリ卿ギー2世の従妹にあたる。ベルトラードは息子をイル・ド・フランスで最も有力なモンレリ家の女性相続人エリザベートと結婚させることで、一族を自分の味方に引き込もうとしたが、ルイもモンレリ家筋の女性と結婚したため、この試みは徒労に終わった。さらに、ルイはベルトラードと公に和解し、継弟フィリップにマント伯領を結婚祝いとして贈与した。
王の再婚は王位継承を複雑にして争いを起こします。私は父ペドロ4世の4度目の結婚には大反対しました。ルイ6世の父フィリップ1世は再婚ではなく離婚してまでベルトラードと結婚して教皇から破門された、彼は大バカ者です。
キリスト教が離婚を禁止したのは、王や権力者が好き勝手に結婚や離婚を繰り返していたら争いが絶えないからだと思います。でもフィリップ1世はそれを破り、息子のルイ6世に大変な苦労をさせています。それでもルイ6世は憎い継母ベルトラードと和解した、立派だと思います。
1108年、父王の崩御により王位に即いた。ルイ6世はフランス諸侯の反乱に苦しめられたが、幼少時からの親友シュジェール(聖職者で、サン=ドニ大修道院院長)を政治顧問として重用し、宗教政策による諸侯の統率、父の代から対立するイングランドとの交渉などを行って、国内の安定化に努めた。
聖職者を政治顧問にしたのは賢いやり方だと思います。聖職者ならば実家の利害関係で動くこともなく、豊富な知識を持っているからです。まあ僕が生きた16世紀では聖職者が大きな権利を持ち、争いが続きましたが・・・