カリストゥス3世(1)
文字数 1,387文字
ビセンテ・フェレールはアヴィニョン教皇庁の支持を求めて各地で説教を行いましたが、同郷のアルフォンソ・デ・ボルハを見出して将来を予言しました。このことが歴史の流れを大きく変えます。作品集には下の画像から入ってください。
カリストゥス3世(1378年ー1458年)本名はアルフォンソ・デ・ボルハ。スペイン、シャティバで誕生。生まれた年に教会大分裂が始まり、アヴィニョン対立教皇クレメンス7世の側近ペドロ・デ・ルナ(後の対立教皇ベネディクトゥス13世)の補佐ビセンテ・フェレールがバレンシア各地でアヴィニョン支持を呼びかける演説を行っていた。その際、偶然出会ったフェレールから将来出世すると予言された。
余の息子ハイメ1世は1238年にアラゴン人、カタルーニャ人、ナバラ人、カラトラバ騎士団による十字軍からなる軍隊でバレンシアを降伏させた。ハイメ1世はその後アラゴン連合王国の構成国の1つとしてバレンシア地方にバレンシア王国を築き、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、キリスト教徒など、あらゆる宗派が王国の市民として生活することを認めた。
やがて外交官としてアラゴン王アルフォンソ5世に仕え、ベネディクトゥス13世が教会大分裂終息に伴い孤立していく中で宮廷に軸足を移し、1429年にベネディクトゥス13世の後任の対立教皇クレメンス8世の退位に功があったとしてローマ教皇マルティヌス5世からバレンシア司教に任命された。
以後はナポリ遠征へ向かうアルフォンソ5世を補佐しつつ故郷のバレンシアで過ごし、1444年にエウゲニウス4世から枢機卿に任命されるとアルフォンソ5世の代理としてローマへ移住、姉妹2人が生んだ3人の甥をバレンシアの高位聖職者に取り立てている。また1441年に庶子フランシスコを儲けたとされている。
1455年、ニコラウス5世の没後のコンクラーヴェで選出、カリストゥス3世を名乗った。彼の選出はコンクラーベで争ったオルシーニ家とコロンナ家の妥協案として、76歳の老齢で痛風に苦しみ余命いくばくもないと思われていたため、中継ぎとして決められた結果であった。