ブルターニュ公ジャン4世(4)
文字数 908文字
ブルターニュ公ジャン4世についての続きです。作品集は下の画像から入ってください。
1399年、ナントで死去。長男のジャン5世が後を継いだが、彼を含む子供達は幼いため、遺言でクリッソンを子供達の後見人に定めた。
ちょっと待ってください。あれだけ対立していたクリッソンを後見人にしてしまうのですか?
この後クリッソンが娘マルグリットと対立したり、ジャン4世の未亡人でジャン5世のらの母ジャンヌ・ド・ナヴァールがイングランド王ヘンリー4世と再婚、子供達がイングランドに連れていかれそうになるなど危機が続くが、いずれもクリッソンの配慮で切り抜け、ブルターニュに留まった子供達はシャルル6世の叔父の1人・ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)に引き取られ成長していった。
1355年、ロンドンでメアリー・オブ・イングランド(1344年ー1362年、イングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの子)と結婚。メアリーと結婚4年目で死別すると、1366年にケント伯トマス・ホランドとジョーン・オブ・ケントの娘ジョーン・ホランド(1350年ー1384年)と再婚した。上記の2人の先妻との間に子はない。
ジョーンと死別して2年後の1386年、ゲランドにてナバラ王カルロス2世の娘ジャンヌ・ド・ナヴァールと再婚した。
・ジャンヌ(1387年ー1388年)
・女児(1388年)
・ジャン5世(1389年ー1442年)
・マリー(1391年ー1446年)アランソン伯ジャン1世の妻
・マルグリット(1392年ー1428年)ロアン子爵アラン9世・ド・ロアンの妻
・アルテュール3世(1393年ー1458年)
・ジル(1394年ー1412年)
・リシャール(1395年ー1438年)
・ブランシュ(1397年ー1419年)アルマニャック伯ジャン4世の妻
ジャン4世亡き後、幼い子供たちの領地管理者となったのはメーヌ伯ギー12世・ド・ラヴァルである。
いろいろな人と争って落ち着かない人生なのに随分たくさん子供がいますね。
次回からジャン4世と争ったオリヴィエ・ド・クリッソンについて話題にします。
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