ヤン・フス(4)
文字数 1,297文字
プラハの騒ぎは大騒動となり、ローマ教会はそれを不快と受け止めた。教皇代理で大司教のアルビックは、フスに対して教書への反対を止めるように説得を試みた。また、ヴァーツラフ4世は両派を和解させようと試みたが、失敗した。
余は南フランスの争いに巻き込まれ、カタリ派に味方したとして異端にされてしまった。別にカタリ派の教義を理解して味方したのではなく、親戚関係でトゥールーズから助けを求められたから参戦したまでだ。そして破門されたまま戦死したから、埋葬されたのも最初は修道院の決められた場所の外であった。
余も同じだ。フスやウィクリフの教義をきちんと理解していたわけではなく、教皇と対立していたからそれを支持してくれたフスに味方しただけだ。それなのにいつの間にか騒ぎは大きくなっていてどうしたらいいかわからなくなってきた。
その間にプラハの聖職者達はミヒャエル・デ・カウズィズを通じて、教皇に不平を訴えた。教皇は聖アンジェロ城の枢機卿に対しフスへの弾圧を命じた。枢機卿の下した罰則により、フスは大司教のもとに拘留され、フスの教会は破壊された。
フスとその支持者への対応はさらに厳しくなり、「教皇ではなくイエス・キリストこそが至上の審判である」というようなフス派の主張を抑える対抗策も厳しくなった。これら厳しい対応により人々の興奮がさらに高まったので、沈静化のためヴァーツラフ4世はフスをプラハから遠ざけたが、フスがいなくなってもフス支持者の興奮は続いた。
こうやって詳しく見ると、ヴェンツェルはフスの問題に関しては結構頑張っています。教会とフス派の両方を和解させようと努力しているのに、結果として両方を敵に回し、必要以上に悪いレッテルが貼られてしまったようにも思います。
ヴァーツラフ4世は、自国が異端として悪評を受けていることに悩みながらも、対立する両派を和解させようと努めた。1412年に国王は王国の首脳の答申を受けて、同年2月2日にチェスキー・ブロドにおける宗教会議を招集した。
宗教会議はプラハの大司教宮殿で実現し、教会内の抗争を治めるための諸発議が検討された。会議にはフス本人の参加は認められなかったが、フスは要求を伝え、ボヘミアは教会問題に関して他国と同じ自由を持つべきであり、何を認めて何を認めないかはボヘミア自身が決定すべきと訴えた。これは総じてウィクリフの教義である。両派の合意は得られなかった。フスは「たとえ火あぶりの杭の前に立たされても、私は決して神学部の忠告を受け入れないだろう」と書いている。