ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(6)

文字数 1,355文字

ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートについての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
1566年6月19日、メアリーは難産だったが無事ジェームズ(後のスコットランド王・イングランド王ジェームズ1世)を出産した。しかし、これでイングランドとスコットランド両国の国王になる夢が完全に絶たれたダーンリーは、息子の誕生を喜ばなかった。それどころか、自分の子か疑わしいとさえメアリーに対して言った。ルースベンにより頭に銃を突き付けられ、動いたら殺すと脅迫された上に、目の前で寵臣のリッチオを殺されると恐怖を味わわされたメアリーは、夫への愛情が完全に冷めてしまった。夫婦の修復は困難になっていた。
息子の誕生すら喜べないとは、ダーンリーは相当酷いエゴイストです。
1567年、ダーンリーは病気にかかった。梅毒だったという説もある。この頃のメアリーは、夫がまたしても陰謀を企み、今度こそ自分を退位に追い込もうとしていることに気付いていたという説があり、パリでも同様の噂が広がっていたという。またこの時期、ビートン大司教も、メアリーに安全のために一刻も早く国王と和解すべきだという手紙を送っている。
家族や身内が信用できずに互いに騙し合い陰謀を企む、スコットランドやイングランド、フランスなどの歴史は本当に恐ろしいです。アラゴンでは私の時代まではそのようなことはほとんどありませんでした。
メアリーは形だけでも夫と和解することにし、1月20日にグラスゴーのレノックス伯の館にいるダーンリーに会いに行った。久しぶりに顔を合わせた夫婦は、周囲が驚くほど親し気な様子を見せた。メアリーはダーンリーに、初めはホリルード宮殿への帰還を提案したが、断られたためクレイグミラー城に共に行くことを勧めた。しかしダーンリーは、エディンバラにある旧司祭間のカーク・オ・フィールドで療養したいと言った。彼の要望通り、メアリー一行はカーク・オ・フィールドへと向かい、、一行は2月1日にカーク・オ・フィールドに到着した。メアリーはこの館で何時間も病気の夫に付き添い、久しぶりに夫婦は和やかに話をした。
お互いに相手を信用してなくても、表面的には親しくしていたのですか?
2月9日の夜にはダーンリーの体調も回復したという事で、翌日にはホリルード宮殿に戻れるため、ダーンリーのために送別の宴が開かれた。大勢が飲んだり歌ったりと、誰もが上機嫌だった。そんな時、メアリーがふと急用を思い出した。この日、メアリーは寵臣のバスチアン・パージュと女官のクリスチアーナ・ホッグの結婚式に出席しており、パージュ達とこの後の結婚祝いの舞踏会にも出席すると約束していたのだった。途端にダーンリーは不機嫌になり、約束が違う、今夜はここに泊まってくれと言い始めた。メアリーはそんな夫をなんとかなだめ、新婚夫婦の舞踏会に向った。ダーンリーの機嫌は直らず、彼は延々とメアリーの悪口を並べ立てた後、近侍のウィリアム・テイラーとワインを飲み干すと就寝した。しかしその日の夜中、何者かによって館は爆破され、1567年2月10日に彼とテイラーの、損傷のない遺体が発見された。
ダーンリーの不審な死については様々な説があるのですが、その記述がかなり長いので、次回からは周囲の別の人物について調べてみます。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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