ジェームズ1世(イングランド王)(5)
文字数 837文字
親政に乗り出したジェームズ6世は、当面の懸案であった宗教問題に取り組むことにした。当時のスコットランドの宗教界は長老派の影響が強く、アンドリュー・メルヴィルらは「聖職者の任命は国王ではなく長老会議によるべき」と主張していた。ジェームズ6世は1584年5月に「暗黒法」(ブラック・アウト)を発布し、国王が最高権威者であり、司教制(監督制)を謳い、国王や議会に反対する説教を禁止した。これに対する信徒の反発は強く、1592年には「黄金法」(ゴールデン・アクト)により「集会」を認めることにした。さらに、1598年には「司教議員」を認め、教会(カーク)の推す3人の司教にスコットランド議会議員同様の立法活動を許すこととした。
同じプロテスタントでもイギリス国教会はヘンリー8世が離婚問題からカトリックと分かれて始め、スコットランドはジョン・ノックスを中心とした長老派(カルヴァン系)が力を持っていたため考え方はかなり違っています。
1586年、ジェームズ6世はイングランドとベリック条約を結ぶ。極秘書類の記録ではあるが、エリザベス1世は自分を挑発しなければジェームズ6世のイングランド王位継承権を認めることを約束、年金も支給した。翌1587年に母がイングランドで処刑されるが、ジェームズ6世はイングランドには形式的な抗議だけで済ませ処刑を黙認、1588年にエリザベス1世に忠誠を誓った(後継者として有力でもあったため)一方でイングランドと対立していたスペインにも接触、両国どちらが勝っても都合が良いように外交に気を配った(結果的にアルマダの海戦でイングランドが勝利)またエリザベス1世の寵臣エセックス伯ロバート・デヴァルーにも接触している。