ブルターニュ継承戦争(4)
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ノーサンプトン伯はパンティエーヴル伯領のブルターニュ北岸に侵攻したが、ラ=ロッシュ=デリアンを獲得したに留まった。1346年になるとエドワード3世はノルマンディに侵攻したため、フランス軍の主力はノルマンディに移動した。ノーサンプトン伯も副隊長のトーマス・ダグワースに託してエドワード3世に加わっている(8月26日にクレシーの戦い)
こうしてモンフォール派、ブロワ派ともに当主がいなくなったが、ブロワ派はパンティエーヴル女伯ジャンヌの下で抵抗を続けた。このため、モンフォール伯妃ジャンヌとあわせて「2人のジャンヌの戦い」と呼ばれることがある。
両派の戦いはその後も続き、トーマス・ダグワースは実質的なブルターニュ公代理として、パンティエーヴル伯領に攻勢をかけたが、1350年に戦死している。1351年には両派から30人の騎士が場所、日時を決めて対戦する「30人の戦い」という騎士道物語のような事件も起きており、フロワサールの年代記に記述されている。当然ながら、戦いの情勢には何の影響も与えなかった。
1352年に、フランス側はネスレ卿ギー将軍をブルターニュに派遣し、本格的にブロワ派の支援を再開した。1352年8月のモーロンの戦いでは、ギー将軍はクレシーの戦いの敗戦の教訓から全軍に馬を下りて徒歩での戦いを命じ、イングランド側のロングボウの脅威を減少させようとしたが、激戦の末にイングランド側が勝利を収めた。
1356年にランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントはブルターニュに入り、レンヌを包囲した。包囲は1357年7月まで続き、ヘンリーは多額の補償金を受け取り包囲を解いた。この時にレンヌ籠城で名を上げたのがブロワ派のブルターニュの騎士ベルトラン・デュ・ゲクランである。ゲクランは、この活躍によりシャルル5世に抜擢されている。