フィリップ4世(6)
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フィリップ4世の性格・人物評価については、しばしば、合理的だが貪欲で酷薄な人柄であるとの評価が下される。ナバラ王国とシャンパーニュ伯領を確保するために妃のジャンヌを毒殺したのではないかという噂が流れたこともあった。
その一方で、王としては、フィリップ2世やルイ9世とともに中世フランスの名君という評価がある。フランスでは聖なる「聖油入れ」「ユリの花」「王旗」が神聖ローマ皇帝に対する対抗の象徴であり、フィリップ2世、ルイ9世のみならずフィリップ4世もまた、一貫して「いとも敬虔なる王」たることを主張して、自己の王権を権威づけたのである。
パミエの司教ベルナール・セッセの人物評は「ワシミミズクのような人物。このうえもなく美しいが、とりえのない鳥である。ただ黙って人を見つめるだけなのだから」というものである。フィリップ4世が控えめで寡黙な王であったことは、同時代の残した記録によっても裏付けられる。
1307年、フィリップ4世はテンプル騎士団への対応をめぐって、ポワティエでクレメンス5世と会談を持ったことがあった。教皇は騎士団の解体に慎重で、フィリップ4世から詳細な説明を受けるものと思っていたが、実際は部屋を横切るほんの少しのあいだ話しただけで、主要な協議はすべて教皇と顧問官のあいだで行われた。
また、フィリップ4世の役割についても、国王は何ら積極的にかかわらず、すべてはレジストたちが案出したことであるという見解と、国王は表面に出ることを極力抑えながらも背後ですべてを統括していたという見解とに分かれ、議論の対象となっている。