シュジェール(2)
文字数 1,079文字
シュジェールは政治の面では、学友であるルイ6世及びその子ルイ7世の2代にわたって政治顧問として仕えた。ルイ6世に武断派のヴェルマンドワ伯ラウル1世と並ぶ文治派の重臣として取り立てられ、ルイ6世の政治の相談役と戦後処理の和睦工作やローマ教皇庁との外交を担当、1135年にはルイ6世と敵対していたブロワ伯兼シャンパーニュ伯ティボー4世を、ラウル1世と共にルイ7世の後見人に捉える条件で懐柔した。
ルイ7世に対しては教育係を務めるとともに、1137年のルイ7世とアリエノール・ダキテーヌの結婚式にラウル1世・ティボー4世と共に同行、同年即位したルイ7世とポワティエの争いに介入して穏便な処置で済ませたが、アリエノールの怒りを買い宮廷から遠ざけられた。これにはルイ7世が武断派のラウル1世に傾倒、ポワティエ遠征に非協力的だったティボー4世を疎んじたため、彼と親しい和平派のシュジェールも疎まれたという背景もあった。
それでも1144年のサン=ドニ大聖堂献堂の儀式でラウル1世・ティボー4世およびルイ7世の仲介を務め政治顧問に復帰、ルイ7世が第2回十字軍に出征して不在中の1147年から1149年にかけてはその摂政を務め、帰国したルイ7世から『国父』の称号を贈られた。十字軍後に不仲となったルイ7世・アリエノールの仲を取り成し、1150年にアンジュー伯兼ノルマンディー公ジョフロワ4世とルイ7世が対立した時も仲介に動き、ノルマンディーへ出兵する寸前のルイ7世を説得して思い止まらせたが、翌1151年に亡くなり遺体はサン=ドニ大聖堂へ埋葬された。シュジェールの死で仲介者がいなくなったルイ7世とアリエノールの仲は破局を迎え、翌1152年に2人は離婚した。