ナバラ王カルロス2世(2)
文字数 1,355文字
1354年1月8日、カルロス2世はノルマンディーの所領を接収に来たジャン2世の代官で王軍司令官シャルル・ド・ラ・セルダをレーグルで暗殺するように弟フィリップに指示したと推測されている(暗殺の原因は、カルロス2世に与えられるはずだったアングレーム伯領を1350年にジャン2世のお気に入りであったラ・セルダが受け取ったからとも、扱いがラ・セルダの下になったことに腹を立てたからだとも言われている)
報復にジャン2世はエヴルーとナバラに侵攻、カルロス2世もイングランド王エドワード3世に接触してジャン2世の反撃を防いだ結果、イングランドとナバラの提携を恐れたジャン2世とカルロス2世との間でマント条約が結ばれ、カルロス2世はラ・セルダ暗殺事件を不問にされ、ボーモン・ル・ロジェ伯領とコタンタン伯領を獲得してノルマンディーの領土を拡大した。
しかし、約束が履行されなかったためイングランドと同盟を結んだだけでなく、ジャン2世に断りなくシャルル王太子(後のシャルル5世)と接触したことがジャン2世の逆鱗に触れ、1356年4月5日にカルロス2世はジャン2世に捕らえられアルル城へ幽閉された。
余の父上カール4世はシャルル4世の時代にパリの宮廷に預けられて高い教育を受け、プラハをパリのような文化の中心地にしようと考え、大学も作った。父上が理想の国として憧れたフランスが、王位を狙う者によって侵略され、王が捕虜になった後は反乱も起きて荒廃した。
1358年にマルセルの手引きでパリ城代(将軍とも)となったが、軍が略奪を働いたためパリ市民の怒りをかい逃亡、マルセルも7月31日に不満を抱いた市民に殺害されパリは王太子が制圧、フランスの主導権を奪われたカルロス2世は1359年8月21日に王太子とポントワーズ条約を結び、イングランドと手を切るしかなかった。