マティルド・ド・ブローニュ(2)
文字数 634文字
スティーブン王の治世はイングランド王位を巡ってモードとの間に内戦が続いたが(無政府時代と呼ばれる)マティルドは夫を強力に支援した。1141年2月の第一次リンカーンの戦で夫はモードの異母兄・グロスター伯ロバートに敗れて捕虜となるが、マティルドはモードからロンドンを奪回、9月には自ら軍を率いてグロスター伯を捕虜とし、夫を捕虜交換で取り戻す働きもしている。
1152年、内戦の終結を見届けることなく、夫に先立って死去した。スティーブンは妻の死で悲嘆に暮れ、モードの息子アンリとの和睦に傾いた。翌1153年8月の長男ウスタシュの急死が和睦に拍車をかけ、11月にスティーブンとアンリは和睦(ウォーリングフォード協定、ウィンチェスター協定とも)1154年のスティーブンの死でアンリはイングランド王ヘンリー2世に即位した。マティルドの遺体はケント・フェヴァーシャム修道院に埋葬され、後に夫と長男も同じく修道院へ埋葬された。