アキテーヌ公ギヨーム10世(2)
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ギヨーム10世は父ギヨーム9世のような天才的な芸術の才能や体格、行き過ぎた行動はなく、戦略家として優れてはいなかったが、好戦的な一面を持ち、フランス王国内における数々の紛争に関わった。ギヨームは騎士としては完璧な人物であり、大らかで国家運営に長けていた。
その一方、父同様に芸術を愛する文化人でもあり、トルバドール、音楽、文学のパトロンであった。また当時は支配者層も識字率が低く、読み書きができる者が少なかったが、ギヨーム10世は高水準の教育を受けており、教養深い人物であった。娘達にも自分と同じように質の高い教育を身に付けさせることに苦心した。
1126年、家臣オーヴェルニュ伯と地元の司教の間で対立が生じた際、フランス王ルイ6世はアキテーヌ公領に入り込んでこの対立を解決しようとしたため、ギヨーム10世が介入せざるを得なくなった。1127年、重罪を犯した家臣ギヨーム・ド・ルゼは、ギヨーム10世の訪問を受けてユーグ・ド・リュシニャンを含むポワティエの男爵数名を捕らえ、法外な身代金を要求された。その後、ギヨーム10世はリュジニャン家とパルテネー家の同盟に対処する必要があった。
さらにノルマンディーに対抗すべく、アンジュー伯ジョフロワ4世と同盟を結び、その一方、1130年からその翌年にかけて、穏やかな国境北部でオーニスの自分の臣下イゼンベール・ド・シャトライヨンを制御するために長期にわたる戦争を強いられ、その他国境内において、武力を用いて制御した者が起こした反乱にも対処しなければならなくなった。