リチャード2世(4)
文字数 1,662文字
翌1388年2月の非情議会で国王側近は追放・処刑され(サフォーク伯とアイルランド公は海外へ亡命)、手足を失ったリチャード2世は議会側に屈服、訴追派貴族が実権を握り彼らが入った評議会が国政を動かしていった。しかし、次第に議会内部が対立したり、イングランド軍がスコットランド軍にオッターバーンの戦いで敗れ評議会も支持が揺らぎだすと、リチャード2世がこの隙を見て1389年5月に親政を宣言してグロスター公・アランデル伯らを評議会から解任、常設評議会も任期きれで廃止され、リチャード2世は主導権を取り戻した。
権力を回復したとはいえ、リチャード2世は専制政治を行うことはせず、11月にランカスター公が帰国したこともあり彼を助言者として信任、1390年にアキテーヌ公位を譲渡した。ウィカムのウィリアムを大法官として登用、再編した評議会の補佐を受けつつ数年間は平穏な治世を過ごしたリチャード2世だったが、フランスに対する平和外交を推し進める一方で訴追貴族への反撃の機会も窺い、自らの基盤回復に策略を巡らしていった。
1383年のフランドル遠征はあったが、リチャード2世は百年戦争に乗り気ではなく、フランスとの和平を考え交渉を呼びかけていた。1381年5月の時点からリチャード2世はフランスと接触を開始、フランス北部の都市ルーランジャンで交渉を重ねて1384年1月に休戦協定を結んだ。それからも休戦を延長しつつ話し合いを続け、1389年に3年間の休戦を決め、1392年にアミアンでリチャード2世とフランス王シャルル6世と会見、1396年3月11日にフランスの首都パリで1398年から1426年まで28年間の休戦協定を発表した。同年に内容をより具体的に取り決め、11月にシャルル6世の娘イザベラ・オブ・ヴァロワとリチャード2世の結婚が実現した。
余の父上フリードリヒ2世はアイユーブ朝のスルタン・アル=カミールと和平条約を結んだが、それは教皇から破門された後で、教皇との対立はより深まってしまった。教皇はあくまでも言われた時にすぐ十字軍の遠征を行う皇帝を望んでいたのだろうが、父上はそうではなかった。リチャード2世がフランスと和平条約を結んだことも、平和を望まない貴族や国民が不満を抱き、争いの火種を作ってしまうだろう。
しかし、フランスの和睦はイングランドでは評判が悪く、イザベラが幼いため世継ぎを生む可能性が大分先になってしまうこと、フランス侵攻の足掛かりにしていた北西部の港町ブレストをフランスへ明け渡したことなどが非難された。好戦派だったグロスター公・アランデル伯も和睦に不満を抱き、イングランドは再び不穏な空気に包まれた。リチャード2世はそうした情勢をよそに1394年から1395年までアイルランドへ遠征、現地のイングランド人入植者と先住民のゲール人部族の対立を収め、両者の不満をなだめた。