フランス王ルイ6世(4)
文字数 744文字
1108年8月3日、父王フィリップ1世崩御後、サン=ブノワ=シュル=ロワール修道院に父が埋葬された直後にルイの戴冠式と叙任式はオルレアンで急遽行われ、サンスの大司教ダンベールによって執り行われた。この時すでにルイは、モンレリ家及びモンフォール家の広範な反対勢力の蜂起に直面していたからである。
フランス王戴冠の伝統的な聖別式場であるランスでは当時のランス大司教が2分し、亡父フィリップ1世から任命されたジェルヴェ・ド・ルテルが就任したが、教会及び教皇パスカリス2世の支持を得られず、わずかな期間で解任され、緑のラウルが就任する事件が起こっていた。
さらに、ランスではルイは継弟フィリップと彼と同盟関係にあったブロワ伯ティボー4世の支配下に置かれていたため、十分な安全が確保されていなかった。
戴冠式には王家の重臣たちはほとんど出席しなかったが、これはルイ6世の前の代でフランス王家の権威及び名声が最低の状態にあったことを示している。
しかし、ルイはオルレアンにてルイ6世として戴冠し、継母ベルトラードの野望は潰えた。ルイは、ベルトラードに亡父フィリップ1世の遺産を売却することを許し、その収益でフォントヴロー修道院に属するオート=ブリュイエール修道院を設立し、そこに隠遁することを許した。継弟フィリップからマント伯領及びその他要塞の押収と引き換えに、フィリップを放免とした。