クレメンス7世(1)
文字数 869文字
クレメンス7世(1478年ー1534年)はローマ教皇(在位1523年ー1534年)メディチ家の出身で、本名はジュリオ・デ・メディチ。パッツィ家の陰謀で殺害されたジュリアーノ・デ・メディチの遺児であり、母はフィオレッタ・ゴリーニ。2代前のレオ10世の従弟に当たる。
教皇レオ10世の下で枢機卿として有能な手腕を発揮していたが、教皇に即位した後は不安定な国際情勢に翻弄され、ローマ略奪の惨事を招く。宗教改革という事態に対しても何ら有効な手が打てず、メディチ家の権益擁護に終始した。
芸術・文化のパトロンという面では、枢機卿時代にラファエロを引き立て、1520年に政敵であるマキャベッリに『フィレンツェ史』の執筆依頼をしている。後には天文学者コペルニクスの研究も支援した。晩年にはフィレンツェからミケランジェロを呼び寄せ、システィーナ礼拝堂の壁画の作成を依頼する(ミケランジェロは気が進まず、実際に「最後の審判」を手掛けたのはクレメンス7世死後の1536年から1541年である)