ゴドフロワ・ド・ブイヨン(9)
文字数 862文字
アンティオキアで勝利を挙げた十字軍だったが、その後の進軍経路をめぐり内部対立を起こした。ル=ピュイ司教がアンティオキアで亡くなり、ボエモンは獲得したばかりのアンティオキア公国の防衛を理由に戦線離脱しアンティオキアに留まることを決め、ゴドフロワの弟ボードゥアンも聖地北部に新たに築き上げた自領エデッサに向った。
残された多くの歩兵は聖地エルサレムへの進軍の再開を望んでいたとされるが、指導者らの中で最有力諸侯であったトゥールーズ伯レーモン4世はガラリヤ公タンクレードなどを自勢力に組み込んだ上でさらなる進軍を拒否した。内部対立した十字軍はアンティオキアに数か月ほど滞在したのち、将兵らの強い要請を受けたレーモン4世の決断により南進を再開した。
ゴドフロワもこれに参加し、エルサレムへの進軍に従軍した。そして十字軍は新たな敵勢力と直面した。エルサレムは既にセルジューク朝の支配から解放されており、この頃にはファーティマ朝という新たなムスリム政権により統治されていたのだった。彼らがこの十字軍遠征の最後の敵勢力として立ちはだかった。
ファーティマ朝は、シーア派の一派、イスマーイール派が建国したイスラム王朝です(909年ー1171年)その君主はイスマーイール派が他のシーア派からの分裂時に奉じたイマーム、イスマーイールの子孫を称し、イスラム世界の多数派であるスンナ派の指導者であるアッバース朝のカリフに対抗してカリフを称しました。王朝名のファーティマは、イスマーイールの祖先である初代イマーム、アリーの妻で預言者ムハンマドの娘であるファーティマに由来しています。