フルク5世(3)
文字数 801文字
しかし、ヘンリー1世が反撃して1112年にシュルーズベリー伯を逮捕し軍事的に優位に立つと和睦、翌1113年にメーヌにおいてヘンリー1世に臣従、ウィリアム・アデリン王太子と長女マティルドを婚約(1119年に結婚)させた。ルイ6世もヘンリー1世と和睦して一時平和になったが、モンフォール卿が再度ヘンリー1世に反乱を起こすと、ルイ6世共々ヘンリー1世の敵に戻り、フランドル伯ボードゥアン7世も加えてノルマンディーへ侵攻、1118年にアランソンでヘンリー1世に勝利している。
同じ1118年にボードゥアン7世が負傷して離脱するとヘンリー1世と再び和睦、1120年にウィリアム王太子がホワイトシップの遭難により事故死した後、1123年に次女シビーユとギヨーム・クリトンを結婚させ、またもやヘンリー1世に反抗する動きを見せたが、ヘンリー1世の意向を受けたローマ教皇の介入でシビーユとギヨームの結婚は無効にされた。
以後はヘンリー1世に味方し、1128年に嫡男ジョフロワをヘンリー1世の娘かつウィリアム・アデリンの実姉で王位継承者に指名されたマティルダ(モード)と婚約させた(ギヨーム・クリトンは同年戦死、一連の反乱は平定された)1133年に生まれたジョフロワとマティルダの息子が後にイングランド王ヘンリー2世としてプランタジネット朝を創始する。