アンゲラン7世・ド・クシー(1)
文字数 1,439文字
アンリ・ド・マルルの許嫁であったイザベル・ド・ロレーヌと結婚し、先妻イザベラ・プランタジネットとの間の子マリーがアンリ・ド・マルルと結婚するという複雑な関係にあるアンゲラン7世・ド・クシーについて紹介します。作品集は下の画像から入ってください。
アンゲラン7世・ド・クシー(1340年ー1397年2月18日)は、クシー、マルル、ラ・フェール、クレシー=シュル=セールおよびオワジー領主、ソワソン伯、アルベマール伯およびベッドフォード伯であったフランスの貴族。
10年後の1356年、アンゲラン7世はポワティエの戦いに参加したが、フランス王ジャン2世はイングランドに敗北を喫した。アンゲランはエドワード黒太子によって捕らえられたジャン2世の解放に対する担保としてイングランドに送られた。
ロンドンにおいて、アンゲランはイングランド王エドワード3世と会った。エドワード3世はアンゲランを気に入り、自身の娘イザベラと結婚させるとともにソワソン伯、アルマベール伯およびベッドフォード伯の位をアンゲランに与え、解放した。アンゲランは1367年に帰国し、精力的に活動した。
1358年のジャックリーの乱の後、アンゲランは母カタリーナの遺産を手に入れるため、軍を率いてスイス、イタリア、およびドイツに向った。この遠征はスイスで激しい抵抗に遭うなどして失敗に終わり、アンゲランのこの時の記憶が1390年に逆さの冠で象徴される「王冠騎士団」の創設につながった。
1377年、義父エドワード3世の死を機に、イングランドとの戦いを再開し、3年後にはベルトラン・デュ・ゲクランの後を受けてフランス軍総司令官の座につくことを求められたが、アンゲランは断り、オリヴィエ・ド・クリッソンがその地位についた。
1380年、アンゲランはフランス王シャルル6世の戴冠式に出席し、その後スコットランドに向かったが上陸できずに終わった。1382年、マイヨンタンの反乱の鎮圧のためパリに入った。フランス王の特使として、アンゲランはブルターニュ公ジャン4世、スペイン王、サヴォワおよびジェノヴァと折衝を行った。クシーには遠征の終わるごとに戻り、アンゲラン3世の城を改修し、ゴシック様式の城を補強した。1367年にアンゲランは義父エドワード3世によりソワソン伯領を与えられていたが、1391年にルイ・ドルレアンに与えられた。また、アンゲランはアムの町をマリー・ド・アムから買い取った。