ジャン・カルヴァン(1)

文字数 1,156文字

ジャン・カルヴァンについてです。作品集は下の画像から入ってください。
ジャン・カルヴァン(ハンス・ホルバイン画)と書いてありました。
ジャン・カルヴァン(1509年ー1564年)は、フランス出身の神学者。マルティン・ルターやフルドリッヒ・ツヴィングリと並び評される、キリスト教宗教改革初期の指導者である。また、神学校として1559年に創設されたジュネーヴ大学の創立者である。
これだけを読むととても立派な人のように思えます。
カルヴァンの神学は、ルター派など一部を除き教派の違いを超えてプロテスタント諸派に大きな影響を与えた。そこにおいて強調されるのは、神の絶対性、聖書の権威、神意による人生の予定、長老による教会政治、信者の訓練などである。プロテスタント教会のひとつ改革派教会は彼の思想的流れを汲む教会である。
カルヴァンのやり方もまた組織的、政治的であるように思います。
1509年フランス北部ピカルディ地方のノワイヨンで法律家の子として生まれる。1523年14歳でパリ大学に留学し、哲学、神学を学び、その後法学を学んでブルージュ大学を卒業。人文主義的な教養を身に付けた。ルキウス・アンナエウス・セネカの『寛容書簡(寛容について)』を翻訳し、1532年にパリで刊行。1533年頃、突然の回心を経験したという。
セネカの『寛容書簡』を翻訳した頃と1533年頃の突然の回心を経験した後のカルヴァンは別人ですね。
1534年、パリで檄文事件が起こるとプロテスタントへの弾圧が激しくなり、バーゼルに亡命した。
檄文事件についてここで説明を入れます。
ルターが『95ヵ条の論題』(1517年)を世に問うたことで始まった宗教改革運動はフランス国内にも影響を及ぼした。フランスはハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)と争っていた(イタリア戦争)ため、戦略上、ルター派諸侯と結びつきがあり、国内の改革派に対しても比較的寛容な態度を取っていた。
宗教だけでなく戦略上の理由で寛容になったり弾圧したりしていたわけですね。
1534年10月18日の朝、フランス各地にカトリックの教義を批判する文書が張られていた。「教皇のミサの恐るべき、重大な、耐えがたい弊害について真正な諸箇条」と題する檄文が、パリやオルレアンなどの諸都市に張り出された。それは教皇のミサ、とくに聖餐論における化体説を非難するものであった。しかし、檄文はアンボワーズの宮殿内のフランソワ1世の寝室の扉にも張られていたため、国王の激怒をまねき、フランソワ1世はフランス国内のプロテスタントに弾圧を加えた。異端とされた者は処刑され、ジャン・カルヴァンら多くの者が国外に亡命した。翌年1月には出版禁止令が出され、穏健な人文主義者も弾圧された。
何者かの悪意によって争いは激しくなっています。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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