エルサレム王アモーリー1世(3)

文字数 1,292文字

アモーリー1世についての続きです。作品集は下の画像から入って下さい。
シャーワルはシールクーフの再来を恐れてアモーリーと相互援助条約を結んだ。シャーワルの心配は杞憂とはならず、シールクーフは二度目の侵攻準備を行っていた。これを受けてシャーワルはアモーリーに援軍派遣を依頼し、再びアモーリーとシールクーフは矛を交えることになった。
アモーリー1世は何度もエジプト遠征を行っていますが、これはアモーリー1世が特別にエジプトに対する野心があったからというだけでなく、エジプト内部での争いも関係しているのですね。
1167年初頭、両者はエジプトへと進撃し、先に着いたのはアモーリーだった。彼はシャーワルの軍と共にカイロの前面でシールクーフを待ち構えた。しかしシールクーフはアモーリーの裏をかいた。彼はカイロの南へと向かい、ナイルを渡り、北上した。そしてナイルを挟んでカイロの西に、シールクーフはギザのピラミッドのそばに布陣した。この時シールクーフはシャーワルに力を合わせてアモーリーを倒そうと提案したが、シャーワルはそれを拒絶したばかりでなく、エルサレム王国への朝貢を含む正式な同盟を結びさえした。
もしも十字軍の遠征がなく、エルサレム王国のような十字軍国家ができなければ、その後の歴史の流れは大きく変わっていたと思います。ただ僕は多くのユダヤ教徒やイスラム教徒を虐殺した十字軍が神の意志による正しい行いをしたとは思えず、教皇などが自分たちの利益になるように都合のいい解釈をして十字軍を呼びかけ、どのようなことが行われたかは一般のキリスト教徒は知らされていなかったと考えています。
その後、エルサレム・エジプト連合軍は南に移動していたシールクーフをナイルを渡って撃破しようと追った。しかし、3月18日のアル・バーバイン近郊で起こった戦闘でエルサレム・エジプト連合軍敗退し、カイロに戻った。カイロに残していた主力を率いて再び南下しようとした時、アモーリーは敵がエジプト最大の都市アレクサンドリアを奪取したという知らせを受けた。敵のこの電撃的な作戦行動に驚きつつも、アモーリーとシャーワルはアレクサンドリアに向かい、同市を包囲した。
シールクーフの軍隊はかなり強かったということですね。
町では食料が足りなかったために一か月足らずで市内は食糧不足に陥ったが、シールクーフはアレクサンドリアを同行していた甥のサラディンに任せて夜に町を脱出し、上エジプトへと向かった。
甥のサラディンが後にエジプト、シリア、イエメンなどを支配したアイユーブ朝の創始者になります。
その地でシールクーフは農民を味方につけて反シャーワルの蜂起を組織した後、カイロへと向かった彼はアモーリーに講和を打診し、長期戦を嫌ったアモーリーもまたそれに応じ、和議が成った。アレクサンドリアの包囲は解かれ、1167年8月、両軍は再び帰国した。この遠征はエジプトとの正式な同盟、フランク軍のカイロ常駐という成果をエルサレム王国にもたらした。しかし、アモーリーはこれだけでは満足していなかった。
この頃の出来事が歴史の流れを大きく変えているように思いました。
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登場人物紹介

ラミロ2世。アラゴンの王様だったがいろいろあって今は亡霊となっている

ペトロニーラ。アラゴン女王の名前を使っているがただの主婦。小説家になりたいと思っている。

フェリペ、16世紀のスペインの修道院で暮らすユダヤ人の少年。父親に捨てられて心を閉ざしていたが、ニコラス医師の指導で本来の明るさを取り戻す。まじめで勉強熱心。

ニコラス医師。修道院内の病院の医師で、孤児たちに勉強も教える。心を閉ざしていたフェリペを気にかけ、特別にラテン語や歴史、医学の基礎なども教える。

フアン1世。不真面目王と呼ばれ業績を残さずに死んだが、娘のヨランド・ダラゴンが勝利王シャルル7世を支えている。

ハインリヒ7世。皇帝フリードリヒ2世の長男でアラゴンの血も引いている。父と対立して反乱を起こし降伏して目を潰され。幽閉されて悲劇的な人生の幕を閉じる。

ペドロ2世。ラミロ2世のひ孫でレコンキスタの英雄。戦闘能力はかなり高く、ファンタジー映画やゲームの中では主要キャラになるタイプだが、なぜか小説の中で影が薄い。

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