ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート(4)
文字数 1,209文字
勝利を確信したレノックス伯とダーンリー卿父子は、厳しい女王エリザベス1世の命令に対して聞く耳を持たなかった。メアリーはローマ教皇に結婚の許可を求める手紙を書く前に、ダーンリーをロス伯に叙した。7月22日にはダーンリーが熱望していたオールバニ公の地位も与え、7月28日にはスコットランド王の称号も与えた。
周囲の反対を押し切り、2人は1565年7月29日にホリルード宮殿で結婚式を挙げた。8月1日にマリ伯がエリザベス1世の援助を得て反乱を起こし、メアリーとダーンリーも戦場に向ったが、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンにより鎮圧された。マリ伯一味はイングランドに亡命した。
しかし間もなくメアリーは、夫のダーンリーが、両親から甘やかされて育った非常なエゴイストで、野心家であることがわかった。彼はメアリーが議会で許可する前から、盛んに共同統治者との地位と完全な実権を与えるよう妻に要求した。またダーンリー卿は美しい女性に目がなく、浮気にも走るようになった。メアリーは自分の軽率な結婚を後悔するようになっていった。ダーンリー卿は傲慢な態度を露わにするようになり、メアリーや周囲の者の怒りを招いた。11月後半にメアリーが病気になっても、ほんの数分姿を見せただけで、ファイフへ狩猟に行ったまま9日間も帰ってこなかった。メアリーは12月には、ダーンリー卿から国王の称号を取り上げ、2人の顔を彫らせた銀貨も回収してしまった。
一方ダーンリー卿は、メアリーが冷たくなったのは、メアリーが信頼する秘書官デイヴィッド・リッチオと不倫しているに違いないと、寵臣とはいえメアリーの秘書に過ぎない男と妻との関係を邪推するようになっていった。リッチオはピエモンテ生まれで、初めはサヴォイア大使モレタ伯の供として1561年にスコットランドにやってきた。カトリックである事もあり、メアリーに気に入られたリッチオは、初めは音楽家として仕えていたが、利害次第でたやすく背くスコットランド貴族より忠実で信頼できると思ったメアリーによって侍従に取り立てられ、その後に秘書官となっていた。大勢の者がメアリーとダーンリーの結婚に反対したが、ダーンリーの友人だったリッチオだけは祝福した。しかしダーンリーは、そんな友人のリッチオにさえ不信感を抱くようになった。