マルティン・ルター(9)
文字数 1,113文字
カール5世は1517年にスペインに入って親政を開始し、1519年にマクシミリアン1世(カール5世の祖父)が死去した後ローマ王に選出されました。その後スペインで内乱が起き1521年に内乱を鎮圧しましたが戦争で莫大な資金を使っています。
議会において、ルターは自分の著作が並べられた机の前に立った。ルターはまず、それらの著作が自らの手によるものかどうかを尋ねられ、次にそこで述べられていることを撤回するかどうか尋ねられた。ルターは第一の質問にはうなずいたものの、第二の質問に関してはしばらくの猶予を願った。熟考したルターは翌日、自説の撤回をあらためて拒絶。「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたとされる。
議会が処分を決定する前にルターはヴォルムスを離れ、その途上で消息を絶ったように見せかけて、賢公フリードリヒ3世の元に逃げ込み、ヴァルトブルク城にかくまわれた。1521年5月25日にカール5世の名前で発布されたヴォルムス勅令はルターをドイツ国内において法律の保護の外に置くこと(帝国追放)を通告し、異端者としてルターの著作の所持を禁止した。
ルターはそこで「ユンカー・イェルク」(騎士ゲオルク)の偽名を用いて一年余りをすごした。ここでの生活は時として精神的な試練であったとルターは言っている。しかしルターはそこで十分に思索と著述に専念することができた。ここで有名な新約聖書のドイツ語訳が行われた。聖書をドイツ語に訳したのはルターが初めてではなかったが、エラスムスのギリシア語テキストをもとにしたこの聖書は、後にドイツ語の発達に大きな影響を与えるほど広く読まれることになる。同時にこの時期に修道生活を否定する論文も著述している。