ティコ・ブラーエ(27)
文字数 1,210文字
ティコは1587年の地球・太陽中心モデルはポール・ウィチシュやレイマルス・ウルスス、ヘリジオス・ロスリン、そしてダヴィド・オリガヌスのような他の天文学者たちの地球・太陽中心モデルとは異なり、火星と太陽の軌道が交叉していた。これは、ティコが地球から火星までの距離が(火星が太陽と反対の空にある時)、地球から太陽までの距離よりも近いと考えるようになっていたためである。ティコは火星には太陽よりも大きな日周視差があると考えるようになったため、このように信じた。
だが、1584年の同僚の天文学者ブルカエウスへの手紙において、1582年とは反対に彼は火星が太陽よりも遠くにあると主張した。これは火星が日周視差をほとんど、または全く持たないという観測結果を得たためである。彼は火星までの距離が太陽までの距離の3分の2しかないと予想されるためにコペルニクスのモデルは受け入れられないと発言した。しかし、彼は空において太陽の反対側にある火星は太陽よりも地球に近いという見解を後からはっきりと変更したが、明らかに火星の視差について認められる何等かの観測上の証拠は存在しない。このような火星と太陽の軌道の交叉は、透明な個体の天球が存在したとすれば太陽と火星があるべき位置に侵入できないため、それが存在し得ないことを意味していた。恐らく、この結論は別の出来事、1577年の彗星が月よりも遠いという結論からも支持されていた。なぜならば、この彗星の日周視差は月よりも小さく、故にそれが軌道を通過する間にいくつもの透明の天球を通過する必要があったためである。
ティコの際立った月理論に対する貢献には月の二均差の発見がある。これは月の黄経に現れる不等を表す項の1つで、月の摂動項の中では中心差、出差に次いで大きい。彼はまた、黄道に対する月軌道面の傾き(これは彼以前に考えられていたように約5度で不変ではなく、4分の1度以上の範囲で変動する)と、それに伴う月の交点の振動を発見した。これらは月の黄道座標における摂動を表している。ティコの月理論は古代から知られているものと比較して、明確な月の不等式の数を倍増させ、実際と月理論の不一致をそれまでの約5分の1に縮小させた。これは彼の没後の1602年にヨハネス・ケプラーによって出版され、ここから発展させたケプラー自身の派生理論は1627年のケプラーの『Rudolphine Tables』で示されている。